植木学校跡から田原坂へ
植木学校跡の碑 → 明徳官軍墓地 → 吉次峠 → 半高山 → 田原坂 → 豊岡橋
植木学校と協同隊
植木小学校の横に立つ植木学校跡の碑。
国道3号と国道208号が接する「舞尾」交差点の近くを県道30号が通る。その道沿いに植木学校跡の碑が立つ。
植木学校は、明治8年4月に開校した「変則熊本第五番中学校」の通称。熊本民権党が中心となり設立され、ルソーの『民約論』を教科書に自由民権主義者を養成し、戦闘訓練も行った。彼らによると、徳川幕府を倒して樹立された新明治政府も、藩閥による新たな専制政府である。それを倒し、自由民権主義による政府をつくることを目指した。
明治10年2月21日の夕方、民権党の平川唯一と宮崎八郎が川尻に進軍した薩摩軍を訪ね、23日には出町学校で300人ほどの一隊を組織し「協同隊」を名乗った。
ここで官軍と薩摩軍の戦闘が開始された。
2月22日、熊本城攻撃を開始した薩摩軍の本営に、官軍の応援部隊が熊本に近づいているとの報告が入る。薩摩軍は協同隊士を道案内として、先発の村田三介隊、続く伊東直二隊を植木へ差し向けた。乃木希典少佐率いる官軍第14連隊の一部が植木に入ってきたところを、向坂で待ち受けていた薩摩軍が林の中から発砲。官軍は一時狼狽するものの、援軍が到着すると今度は薩摩軍が孤立。しかし、さらにそこへ伊東隊が合流した薩摩軍が攻勢に転じた。
官軍の連隊旗が薩摩軍に奪われた現場付近。
退却を決めた乃木は、河原林雄太少尉に10人以上の兵を付け、連隊旗を託した。しかし河原林は戦死、連隊旗は薩摩軍に渡ってしまう。千本桜の地でその報告を受けた乃木は、死を決し自ら連隊旗を取り戻すため現地へ引き返そうとしたが、部下の必死の説得にとどまった。
乃木は「軍旗喪失事件」の34年後、明治天皇の大葬当日に自決。10カ条からなる遺言の冒頭には、「明治十年之役ニ於テ軍旗ヲ失ヒ其後死處得度心掛候も其機ヲ得ス」と記している。
明徳官軍墓地。戦死者について墓碑に記す。
植木学校跡の碑から南へ約600メートルの植木天満宮に「官薩両軍緒戦之地」の標柱、その400メートルほど先に「河原林少尉戦死の地」の碑が立つ。さらに南へ進み、熊本県警の自動車訓練場を過ぎると小さな十字路。すぐそばの明徳官軍墓地には、向坂の戦いで戦死した熊本・大阪・東京の鎮台・近衛の将兵の120基を超える墓碑が並ぶ。
植木台地
植木台地上を通る国道3号から谷間へ向かう。
明徳官軍墓地から国道3号に出て右折し、すぐの「鐙田」交差点を左へ。下りの道沿いの家屋が途切れると、やがて田園風景の中に熊本市と山鹿市を結ぶ自転車道とJR鹿児島本線の線路が横切る。踏切を渡れば、小さな橋が架かる井芹川。
植木の中心部は、南北10キロメートルほどの台地上にある。標高109メートルの北区役所の近くが植木の国道3号上で最も高く、北に向かって低くなり宮原地区辺りは標高25メートルほど。南は植木台地が京町台地へ続き、南端に熊本城が立つ。東西は3.5キロメートルほどの幅で、東は坪井川、西は鐙田川・井芹川が谷間をつくる。
台地上から下り川を過ぎると上り坂が続く。
約27万年前から、阿蘇山で大規模な噴火が4回起きている。生じた火砕流は植木にも及び、三ノ岳や二ノ岳などの金峰山地の麓に堆積した。やがて、台地の東西で堆積前の低さまで浸食が進み、それぞれ谷をつくり出した。その水の流れが坪井川と鐙田川・井芹川であり、間に延びるのが植木台地である。
「寂心さん」は鹿子木寂心ゆかりの大樹。
コースは川を渡ると上りになり、県道101号に出たら左へ。道沿いに「寂心さん」と呼ばれるクスノキの大樹を見て道なりに進み、県道31号の交差点で右折。「長洲港」や「天水」を示す標識がある交差点で左へ向かうと、道は吉次峠へ続く。
吉次峠に向かう道の途中で見る植木の町並み。
田原坂の戦い
官軍の応援部隊は福岡県の久留米から、南関・山鹿を通る本街道と、三池(大牟田)を経て高瀬(玉名)を通る裏街道のふたつのルートで熊本城を目指した。ただし、山鹿方面では敵の進行を防ぐにとどめ、高瀬方面では敵を駆逐することに努めている。高瀬方面では隊をさらにふたつに分け、木葉・田原坂方面と、吉次峠方面へ差し向け、後に合流する予定にしていた。
吉次峠の戦いでは熊本隊の佐々友房が奮闘した。
吉次峠の南側は三ノ岳山頂へ続き、北側には半高山がある。この峠は、地形的に守るに易く攻めるに難しいだけでなく、薩摩軍は官軍の進軍を食い止めるため精鋭を集めていた。後に、峠を陥落できなかった官軍が「地獄峠」と呼んだほど、熾烈さを極めた戦闘が行われた。
半高山山頂。クルマでのアクセスも可能。
「吉次峠戦場地跡」の向かいに見える半高山も、激しい戦闘が行われた所だが、山頂からの風景は見応えがある。北に筑肥山地、東に阿蘇や九州山地の山並みが続き、眼下には熊本平野が広がる。西へ目を向ければ、有明海越しに島原半島の雲仙岳(長崎県)を望む。
半高山から有明海越しに見る雲仙岳。
県道113号に入り半高山を右手にして進み、やがて木々の間を縫うように続く下りのカーブが終わった先に、菱形八幡宮がある。高さ50メートルを超す夫婦杉が並び立ち、200メートルほど先の「菱形の池」では、清水が湧き出す。さらにその手前の細い道を上った所には、岩の壁面に釈迦如来座像や阿弥陀三尊立像が彫られた、円台寺磨崖仏群が残る。
坂を下り切ると夫婦杉が立つ菱形八幡宮。
JR鹿児島本線の踏切を渡り左へ折れ、高架の線路沿いを500メートルほど進むと再び県道31号。線路と木葉川と共に続くこの道は、谷間に延びる。官軍は左手の高台にある二俣地区に砲台を置いた。その谷向こう、現在の田原坂公園から左手へ下り坂が続き、国道208号に出る。この坂道が西南戦争最大の激戦地となった、約1.2キロメートルの田原坂である。
台地の合間に県道31号が延びる。
田原坂の戦闘では、「抜刀隊」が活躍した。薩摩軍のそれは、地面に身を伏せ、木や石の陰に隠れて敵に接近し、突然斬りかかっていく。官軍は狙撃隊を差し向けるが効果はない。当時の田原坂は、外が高く内が低く、急な坂があり曲折し、左右は断崖で、樹木が多く昼でも暗かったという。官軍も抜刀隊を組織し、「同生同死」を誓った100人を田原坂へ向かわせた。
田原坂は県道31号の入り口からすぐ。
官軍の陸軍中将・山縣有朋は政府への報告書で、田原坂の攻防戦を決した3月20日の戦いは、官軍の不意打ちによる勝利だったという。その朝、前夜からの雨が降りやまず、薩摩軍が備えをしていないところへの進撃だった。防塁をことごとく落とされた薩摩軍は敗走し、植木の営所も総崩れとなった。官軍はそれを追撃し、営所に火を放ち、植木の町を焼き払った。
ただしこの後、官軍の進軍は容易にはいかず、両軍は互いに戦線を張り向坂で対峙する。官軍は右翼を吉次峠から有明海へ、左翼を山鹿方面に延ばし、薩摩軍は左翼を三ノ岳から有明海へ、右翼を泗水から菊池へと延ばした。結果的に官軍の応援部隊が、植木からわずか10キロメートルほどの熊本城と連絡できたのは、田原坂陥落から1カ月近く経った4月16日のこと。
江戸時代に築造された豊岡橋。右上が田原坂。
県道31号が国道208号に出る直前の左手に、享和2年(1802年)に築かれたという石橋の豊岡橋が架かる。官軍は田原坂に向けてこの石橋から出撃した。「田原坂公園入口」交差点から玉名方面へ300メートルほどの「境木」バス停脇には、「田原坂攻撃官軍第一線陣」の文字が認められる、古びた石碑が立つ。
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