ちくほう
筑豊
~遠賀川流域の炭鉱の記憶~
ちくほう
筑豊
~遠賀川流域の炭鉱の記憶~
遠賀川と穂波川に架かる芳雄橋から見るボタ山。
三方を福智・英彦・三郡山地の山々に囲まれ北側で響灘に臨む、直方・飯塚・田川を中心とする遠賀川流域はかつて石炭で栄えた。文明10年(1478年)に埴生村(中間市垣生)で石炭が発見されたのが始まりという。当初は塩田や照明などで使われ、幕末には船舶の燃料として、明治期には紡績や製鉄などで需要が高まった。
江戸時代のころ、採掘された石炭は遠賀川を舟で河口まで運ばれ、芦屋や若松で中国・関西方面などへ向かう船に積み替えられた。生産量は増加していき、明治半ばには川が舟で混雑するほど。一方、明治24年の開通から徐々に拡充した鉄道網が、明治の終わりには石炭輸送の大部分を賄った。
明治20年代の大資本の参入により大規模化・機械化が進み、八幡製鉄所の操業開始などでさらに需要は増加。ピークは昭和15年で、全国5631万トンのうち筑豊は2049万トンを産出した。
しかし昭和30年代のエネルギー政策の転換などにより炭鉱の閉山が相次ぎ、筑豊では坑内掘りが昭和43年、露天掘りが同51年にそれぞれ最後となった。
かつての筑豊炭田エリアには往時の足跡が残る。直方では筑豊石炭鉱業組合の建物などを「直方市石炭記念館」が残す。飯塚の「旧伊藤伝右衛門邸」は、貧しい家に生まれた男が「炭鉱王」と称されるほどの成功を収めた成果を物語る。田川の「石炭記念公園」の高台からは、巨大な竪坑櫓や煙突越しにボタ山を望む。
参考資料:「筑豊炭田について」直方市石炭記念館HP、他
昭和26年の筑豊の炭鉱数は全国の約4分の1を占めた。
約2300坪の広大な敷地にある「旧伊藤伝右衛門邸」。
アクセス:芳雄橋(飯塚市芳雄町)
紹介スポット:芳雄橋・旧伊藤伝右衛門邸・石炭記念公園・直方市石炭記念館
移動手段:クルマ