みえつ
三重津
~薩長土と佐賀藩~
みえつ
三重津
~薩長土と佐賀藩~
三重津海軍所跡の遺構は保護のため埋め戻されている。
「薩長土肥」とは明治新政府における藩閥、つまり薩摩・長州・土佐・肥前の4藩のこと。幕末の動乱期には「薩長土」の動きが目立ったが、肥前佐賀藩の態度は慎重で、情勢をうかがっていた。ただし、保有する近代的な技術力は他を圧倒するほどのものだった。
新政府軍として臨んだ慶応4年(1868年)の上野戦争では、最新式大砲のアームストロング砲2門で彰義隊を砲撃し、勝利に大きく貢献した。
佐賀藩が日本になかった鉄製大砲を取り入れたきっかけは、文化5年(1808年)の「フェートン号事件」。オランダ船に偽装したイギリス軍艦の長崎港への侵入を許したもの。警備担当の佐賀藩はその責任を取らされ、幕府から藩主の斉直が謹慎を命じられる事態となった。次の藩主の直正(閑叟)は長崎港の軍備強化のため砲台を増設し、従来の青銅製大砲よりも強固な鉄製大砲の、自前での製造を試みた。失敗を繰り返した末、完成は嘉永4年(1851年)。
日本初の実用蒸気船「凌風丸」の製造にも成功した。造られた場所は早津江川畔の三重津海軍所。河口から約6キロメートルの所にあった佐賀藩海軍の拠点で、有明海の沖合に停泊した軍艦と、三重津との連絡などに使用された。
現在、三重津は小さな漁港の入り江に、当時の面影をわずかに残す。隣接する「佐野常民記念館」では、海軍所や、その責任者だった佐野常民などを紹介している。
参考資料:『佐賀県史』、他
入り江に往時の形状を残すという船屋地区。
「凌風丸」の模型などを展示する佐野常民記念館。
アクセス:佐野常民記念館(佐賀市川副町)
紹介スポット:佐野常民記念館・三重津海軍所跡