おかじょう
岡城
~瀧廉太郎と荒城~
おかじょう
岡城
~瀧廉太郎と荒城~
稲葉川と大野川に挟まれた断崖絶壁上にある岡城跡。
明治12年に東京で生まれた瀧廉太郎が、父親の仕事の関係で大分町(大分市)に来たのは同23年。翌年の12歳の時に竹田に移り住んだ。高等小学校高等科卒業後、上京して東京音楽学校予科に入学。本科を首席で卒業した3年後の明治34年3月30日、廉太郎作曲の『荒城の月』が世に出た。
文学・教育・音楽の専門家に作詞作曲を依頼して200曲以上の中から選ばれた38曲からなる「中学唱歌」は、中学校の教科書として発行された。そのうち『荒城の月』を含む3曲が、廉太郎による作曲。
『荒城の月』の作詞は、明治4年生まれの仙台出身の詩人・土井晩翠。依頼されて課題を見た晩翠は、「まず第一に思い出したのは会津若松の鶴ヶ城であった」と回想する。晩翠の詩を受けて曲作りを行った廉太郎のそれは、すでに建物が取り壊されて十数年を経た、少年のころに遊んだ岡城だったという。
岡城は、一説に文治元年(1185年)に緒方惟栄が築いた山城が始まりとされる。天正14年(1586年)の豊薩戦争では、3万を超える島津勢の攻撃を18歳の志賀親次が守り抜いたという難攻不落の城。大友氏の領地没収後の文禄3年(1594年)、中川秀成が入り総石垣の近世城郭が築かれた。
明治4年の廃藩置県により中川氏がこの地を去り、同7年に岡城の建物は全て取り壊された。跡地には木々や雑草が生い茂り、石垣は破損し獣がすみ着き、廉太郎が遊んだころは荒れ果てていたそうだ。
参考資料:大分県教育庁文化課『大分県先哲叢書 瀧廉太郎 資料集』、他
石垣からはるか下に国道502号が見える。
4歳年下で同窓の朝倉文夫が製作した廉太郎の像。
アクセス:岡城跡(竹田市竹田)
紹介スポット:岡城跡