たかせふなつきばあとかいわい
高瀬船着場跡界隈
~銘柄米の集積場~
たかせふなつきばあとかいわい
高瀬船着場跡界隈
~銘柄米の集積場~
「俵ころがし」と呼ばれる坂を使ってコメが運ばれた。
江戸時代の終わりごろ、大坂の堂島米会所における肥後米の評価は非常に高く、「横綱格」の扱いを受けていたという。他のコメとは別に相場が立てられ、その価格は全体の相場に影響を与えていた。問屋が集まって組織した江戸十組問屋が、肥後米に注文を集中させたというほど。
文化年間(1804~1818年)、細川氏の領内には熊本・川尻・八代・高瀬・大津・鶴崎・久住、7カ所の年貢米を納める御蔵が置かれていた。そのうち大坂の市場へ送られたのは、川尻と八代、高瀬の蔵に納められたコメ。高瀬蔵からの積み出し量が最も多く、全出荷量約40万俵のうち半分ほどを占めたこともあった。
高瀬蔵に納められた年貢米は、地元玉名の他、菊池川流域などで生産されたもの。中でも菊池川中流域から舟で運ばれた山鹿や菊池のコメが特に品質が高かった。
菊池川に架かる、JR鹿児島本線の鉄橋の袂に高瀬船着場跡が残る。かつて高瀬は豊臣秀吉の直轄領で、加藤清正が代官として統治していた。清正の肥後入国の翌年、天正17年(1589年)から菊池川の改修と共に、港の施設と米蔵としての御蔵が築かれ、細川時代に拡充された。なお、御蔵は西南戦争の際に焼失している。
船着場跡から菊池川の300メートルほど上流側で小さな流れをつくる裏川のほとりは、かつて商家が立ち並んだ所。江戸時代に築造されたさまざまな石橋が、石垣と共に往時の面影を残す。
参考資料:『玉名市史』、他
高瀬船着場には、2カ所の発着場があった。
嘉永元年(1848年)築の高瀬目鏡橋などが架かる裏川。
アクセス:高瀬船着場跡(玉名市永徳寺)
モデルコース:高瀬船着場跡 → 裏川
移動手段:徒歩