福岡
こぼれ話
福岡
こぼれ話
クニごと大和に移ったのなら
平成29年5月訪問
資料の整理をしていたところ、「甘木」という表記を「日本」と見間違えたことがありました。漢字の形が似ているだけのことですが、少々気になります。というのも、朝倉市の甘木鉄道甘木駅の前に、「日本発祥の地」と刻まれた石碑が立てられているからなのです。
本編で紹介しましたように、市内の「平塚川添遺跡」を含むエリアは邪馬台国の候補地です。斉明天皇7年(661年)建立の恵蘇八幡宮には、この地で崩御された斉明天皇の仮の埋葬地とされる御陵山があります。一説に、斉明天皇は百済救済のため、「朝倉橘広庭宮」に一時的な遷都をしました。その場所を、かつてクニごと大和に移る前に先祖が住んでいたから選んだと考えるなら、不思議でもないように思えます。
映画『男はつらいよ』の寅さんの口上に、「国のはじまりが大和の国ならば・・・・・・」とあります。大和の国の前身が朝倉ならば、「日本発祥の地」が朝倉・甘木のようにも思えてきます。
平塚川添遺跡から4キロメートルほどの所です。
「サザエさん」のふるさと
平成30年3月訪問
福岡市の総合図書館と博物館の間の道に、「サザエさん通り」とありました。この辺りは元寇で蒙古が襲来したという所です。防塁跡に向かう途中の「西新通り」交差点には、「サザエさん発案の地」の記念碑があります。説明文をカメラに収め西南学院大学沿いの道を歩いていると、今度は波平さんの像を見掛けました。元寇神社や防塁を見て、元軍の陣地跡の公園に向かう途中の西新商店街でも、サザエさんを目にしました。
説明文によると昭和19年ごろ、原作者の長谷川町子さんはこの地に住んでいたそうです。漫画『サザエさん』の登場人物の名前が海産物になったのは、当時海岸だった「よかトピア通り」の辺りを、妹さんと毎日散歩していたからだといいます。
東公園の日蓮像の台座には、「蒙古襲来」について残酷なシーンが描かれています。そんな空恐ろしい出来事の史跡巡りの中で偶然見つけた、ほのぼの系国民的漫画のキャラクターの「ふるさと」でした。
通りの北側にシーサイドももち海浜公園もあります。
待たされない方法
平成30年5月訪問
太宰府取材は、ゴールデンウイークの真っ只中でした。天満宮の境内が開かれる朝の6時過ぎに西鉄太宰府駅前に到着して現地へ向かうと、参道にも境内にも人影はまばらでした。本殿や「飛梅」、ウシの像などの写真を押さえ、「九州国立博物館」と「宝物殿」と「菅公歴史館」が開館するまでの間、観世音寺と政庁跡を訪れました。天満宮に戻ったのは午後3時ごろです。
参道から本殿に向かう途中、鳥居の先にウシの像があります。「ウシ」に触れると御利益があるらしく、像の前にはたくさんの人が列をつくっていました。本殿近くにある像の前も長い行列です。待つのが苦手な私は、早起きをして撮影を終わらせていたことに安堵しました。
一方で、名物の「梅ヶ枝餅」をいただきたいと思うものの、参道沿いのお店はウシの像の前と同じように、どこも行列ができています。それでも、参道から外れて歩いていると小さなお店を見つけて、待たされずにひとつ買うことができました。
早朝の太宰府天満宮はゆっくりと見学できそうです。
特攻機のパイロット
平成30年5月訪問
太宰府取材の帰り、筑前町の大刀洗平和記念館に立ち寄りました。戦時中、日本陸軍の飛行場があった所で、パイロットの養成学校も置かれていました。特攻隊の代名詞になっている鹿児島県の知覧は、ここの分校です。
展示されている実物の「ゼロ戦」を目の当たりにしたことは感動ものでしたが、さらに強烈な印象を受けたのが、ある1枚の写真でした。画面いっぱいに無数の閃光が飛び交い、写真中央の上方に小さな黒い影が見えています。昭和20年5月12日、沖縄に停泊中の米戦艦ニュー・メキシコに無数の銃弾の中、翼を翻して突入態勢に移ろうとしている日本軍の特攻機を戦艦上から撮影したものです。記録では、この攻撃に5機が参加し、1機が命中、1機が至近自爆をしたことにより、死傷者150人の被害をもたらしたといいます。
終戦まで3カ月ほどのころです。操縦桿を握っていた日本兵が何を思っていたのか、考えてしまいます。
大刀洗平和記念館内に展示されている零戦三二型です。
「信心」のパワー
令和4年5月訪問
英彦山神宮の参道を奉弊殿に向かっていた時、ご夫婦とみえる高齢の方を見掛けました。男性は女性の手を取り、女性は足の具合が良くないようで、手すりにつかまり石段を一歩ずつ確かめるように登っていました。江戸時代に築かれた石段は、歩きやすいものではありません。最初は緩やかな勾配は徐々にきつくなっていきます。体力のない人にはかなり厳しい道でしょう。
銅鳥居の近くから奉弊殿までスロープカーが通り、決して歩く必要はありません。そこを足の悪い高齢者の方が、わざわざ歩いて向かわれていたのです。
2人を追い抜く際に「こんにちは」と声を掛けると、男性はこちらの目を見て、女性は足元に目を向けたまま、「こんにちは」と返してくれました。2人に何らかの強い思いがあるように感じた一方で、足の悪いおばあちゃんにそこまでのことをさせるのが「信心」なのか、とも思ってしまいます。わずかながらの空恐ろしさを感じずにはいられませんでした。
奉弊殿が近づくにつれ参道の勾配は急になります。
白蓮と龍介の石炭と文学
令和4年10月訪問
公卿出の父と大名出の母を持つ柳原燁子(あきこ、白蓮)は25歳の明治44年、石炭で成功した50歳の伊藤伝右衛門と結婚しました。燁子には望まぬ結婚でしたが、伝右衛門が出資した女学校の経営に参加したいとの希望がありました。しかしそれはかなわず、家では女中と折りが合わず、伝右衛門との関係も冷め、孤立を深めていく燁子の気持ちが向かった先が短歌でした。
大正9年、別府(大分県)の別邸で行われた、燁子と東京の雑誌社との打ち合わせに編集者として現れたのが、東京帝国大学の学生だった宮崎龍介です。龍介が生まれた荒尾(熊本県)は、隣の大牟田と共に石炭で栄えた町です。伝右衛門と同様、石炭の町の人です。しかし龍介は石炭の世界に向かわず、東京帝大に進みました。そして燁子と出会い、駆け落ちして、一生を添い遂げました。
燁子と龍介のために「石炭」がお膳立てをし、「文学」が2人を引き合わせたようにも思えます。
燁子が過ごした伝右衛門邸2階座敷の南側の窓です。
大相撲九州場所の宿舎
令和4年12月訪問
博多港のぴあトピア緑地で、浴衣姿のお相撲さんを見掛けました。「なんでこんな所に・・・・・・」と思いつつ、次の取材地へ向かい始めたらすぐに疑問は解消されました。博多ポートタワーから徒歩数分の福岡国際センターで、「大相撲十一月場所」が開催中だったのです。
そのまま約20キロメートル西の今津へ行き元寇防塁の取材後、博多へ戻り始めると、今度は華やかな色合いの「のぼり旗」を見掛けました。よく見ると関取の名前が描かれています。調べてみると、九州場所に出場中の関取が所属する相撲部屋の数は約40で、宿舎は会場が所在する福岡市の内外に点在しています。遠いところでは、佐賀市にもありました。そのうちのひとつを偶然今津で見掛けたものです。その後に志賀島でもう1カ所、目にしました。
ちなみに、見学可能な所もあるそうですので、興味のある方は、次の機会にお目当ての部屋に問い合わせをされてみてはいかがでしょうか。
今津で見たのは追手風部屋の宿舎でした。
外患に対抗するのは
令和4年12月訪問
今津の「元寇殲滅之處」の碑は大正4年の建造ですが新しさを感じました。傍らの「元寇記念碑 修復工事 寄付者御芳名」には、寄付者の名称と金額が記されています。数えると616の企業・団体・個人で総額359万9500円でした。令和の世に元寇に関する石碑が寄付金で修復されたのです。記念碑の類いは誰かの強い思いがあって建てられるものでしょう。この修復は平成17年の大地震での被害などによるものですが、わざわざ大金をかけてやるからには、どんな人びとの思いがあるのでしょうか。
世界地図では朝鮮半島は福岡のすぐ近くです。現在の日本は、いくつかの近隣諸国と必ずしも友好的とはいえないようです。もしものとき、元寇では鎌倉武士が迎え撃ちましたが、現代ではどうでしょう。
ちなみに三里松原の横、海沿いの航空自衛隊芦屋基地には、最大速度時速約1040キロメートルの「T-4中等練習機」や「地対空誘導弾ペトリオット」というものがあるそうです。
朝鮮半島方面に向いて立つ「元寇殲滅之處」の碑です。
金印の発見者の「運」
令和4年12月訪問
福岡ドームに程近い、福岡市博物館で常設展示されている金印の実物を見ました。実際に目にして、「とても小さい」という印象を受けました。展示された金印の印面は、鏡に映し出された形で見ることができますが、小さくて文字を読み取ることが困難なほどです。
それまでに何度か写真などで見ていた金印は、文字が確認できるほどに拡大されたもので、勝手に大きなものと思い込んでいました。本文でも触れましたが、印面は一辺2.3センチメートルの正方形ですから10円玉ほどの大きさで、高さも2.2センチメートルです。
田んぼで作業をしている時に土の中から発見されたといいます。くわなどを使って土を掘ったりしていたのでしょう。きっと泥まみれで汚れていたと思います。そんな状態でこれほど小さなものが、小石と見間違われず、よく見つけ出すことができたと、発見した2人のよほどの「運」の良さを思わされました。
石碑の「右斜め前方の辺り」に立つバス停です。
左旋回する戦闘機
令和6年11月訪問
浜の宮海岸を訪ねた後、築城基地の滑走路が見える行橋市の「松原展望台広場」を訪ねました。本当は、戦闘機の離着陸を見学できそうな、もっと遅い時間帯に行きたかったのですが、スケジュールの都合上、到着したのは朝の8時前。クルマで駐車場に入ると大きなエンジン音が聞こえていたので期待したのですが、8時過ぎには音は止んでしまいました。わずかながらも期待を持った分、少し心残りです。
その日の午後2時ごろ、クルマの運転中に信号待ちをしていると、突然、ジェット音が聞こえてきました。フロントガラス越しに空を見上げると、4機編隊の戦闘機が左旋回をしていたところです。2、3秒間の出来事でしたが、満足できました。
なお、事前に基地へ離着陸の予定時間を電話で尋ねてみましたが、応えてはいただけませんでした。ただし休日の離着陸予定については、行橋市役所のホームページの「築城基地からのお知らせ(休日離着陸等)」に掲載されていました。
滑走路が見える場所にベンチが設置されています。