なかつじょう
中津城
~黒田如水が築いた水城~
なかつじょう
中津城
~黒田如水が築いた水城~
天守閣と薬研堀。堀の水は中津川から引き入れられる。
天正15年(1587年)、豊臣秀吉は九州平定を果たした。黒田官兵衛孝高(如水)は戦功により、豊前8郡のうち京都・仲津・築城・上毛・下毛および宇佐の一部、6郡12万3000石を与えられた。そのエリアは現在の宇佐市から福岡県京都郡に及ぶ。
同年7月、豊前に入国した孝高は当初、馬ヶ岳城(福岡県行橋市)を居城とする。後に法然寺(同築上町)や時枝城(宇佐市)を経て、翌天正16年に所領の中央に位置する丸山城を修築して本拠地とした。これが中津城である。
「黒田如水縄張図」によると、城は豊前海を臨む高瀬川(中津川)河口に位置し、川に面した本丸、それを取り巻くように二の丸と三の丸、それぞれを堀で囲んだ。水堀は、潮の干満差が大きな豊前海の性質を利用して水位が変化するように工夫し、海底には乱杭石を並べ海からの敵の侵入に備えた。中津城は香川県の高松城と愛媛県の今治城と共に日本三大水城に数えられる。
中津城から500メートルほどの福沢諭吉旧居近くから延びる「寺町散策コース」に、合元寺が立つ。黒田氏に襲撃された際の宇都宮氏の家臣たちの血が、この寺の壁を赤く染め続けたというエピソードから「赤壁寺」の別名を持つ。
黒田氏が中津城にいたのは、慶長5年(1600年)11月に筑前へ加増転封されるまでの約12年間。後を継いだ細川氏、小笠原氏、奥平氏により城の増改築や城下町の整備が行われた。
参考資料:「中津城を知る」中津市歴史民俗資料館、中野等『黒田孝高』吉川弘文館、他
天守閣からは城下町や豊前海を見渡す。
白く塗り替えても赤く染まったという合元寺の赤壁。
アクセス:中津城(中津市二ノ丁本丸)
紹介スポット:中津城・合元寺
移動手段:徒歩