なごやじょう
名護屋城
~戦国武将の集結地~
なごやじょう
名護屋城
~戦国武将の集結地~
城郭の破却後、櫓や門は唐津城で利用された。
全国平定を成し遂げ、天正13年(1585年)に関白となった豊臣秀吉は、次に中国・明の支配を目指した。そのための道案内などを朝鮮に求めたが、拒まれたことをきっかけに派兵したのが文禄・慶長の役。朝鮮出兵ともいう。拠点として東松浦半島北端に築かれたのが名護屋城である。
日本から朝鮮半島までの最短距離の地で、大きく入り込んだ湾や複数の島々があり、船の出入りや停泊に適していた。
そのような港としての条件が揃っていたが、特に重要だったのが、この地がかつて朝鮮半島や中国の沿岸部で活動していた倭寇の根拠地だったこと。九州と朝鮮半島の間の海流は荒く、松浦水軍の航海術を持つ彼らに、渡海の際の水先案内人の役割を期待したという。
城の敷地面積約17ヘクタールは、当時としては大坂城に次ぐ規模。周囲には全国から集められた戦国大名の約120の陣屋が置かれ、人口20万人を超える城下町が築かれた。城郭は、朝鮮出兵後、一国一城令や島原の乱などを受けて破却されている。
現地には大規模な石垣が残る。朝鮮半島の方向を向く、高台の本丸跡からは秀吉も見たであろう、馬渡島や松島などが浮かぶ玄界灘の海原。城跡を中心とする半径約3キロメートルのエリアでは、徳川家康や前田利家、加藤清正らの、数々の陣跡の案内を至る所で目にする。歴史上著名な戦国武将ゆかりの地が、これほどまでに集中する場所は、他にはそうないだろう。
参考資料:『鎮西町史』、『唐津市史』、他
名護屋浦の入り口に加部島が浮かぶ天然の良港。
玄界灘の朝鮮半島方面を望む、名護屋城の天主台跡。
アクセス:名護屋城跡(唐津市鎮西町)
紹介スポット:名護屋城跡