ながさきこう
長崎港
~江戸期に異人が暮らした町~
ながさきこう
長崎港
~江戸期に異人が暮らした町~
グラバー園第2ゲートそばからの長崎港の風景。
長崎の発展は、大村純忠が港を開いたことに始まった。町がイエズス会に寄進された後、豊臣秀吉や徳川幕府の支配下となり、鎖国政策が本格化すると港への出入りはオランダ船と中国船に限定された。
江戸時代、岬の先端にあったイエズス会本部の跡地に長崎奉行所が置かれ、寛永13年(1636年)に出島が築かれた場所は、その目の前。縦70メートル、横幅南側233メートル、北側190メートルの扇形の人工島。当初はポルトガル人の住居エリアだったが、寛永18年からオランダ人が居住した。現在は中島川沿いに再現されている。
出島の程近く、銅座川沿いに「新地中華街」がある。この地も出島同様、かつては埋め立てて築かれた人工島で、中国船用の蔵が置かれていた。館内町の約3万平方メートルは、中国人が暮らした唐人屋敷跡。エリアの四隅には境界を示す標柱が立つ。
幕末になると、米露蘭英仏の5カ国との修好通商条約により外国人居留地が設けられ、東山手から南山手の丘陵地に洋館が立ち並んだ。出島と唐人屋敷に居住するオランダ人と中国人の市中への行き来は制限されたものだったが、居留地の外国人らは自由だった。
路面電車の石橋停留所西側、急勾配の長い階段の「相生地獄坂222段」を経て坂を上り詰めると、グラバー園の第2ゲート前。そのすぐそばの「垂直エレベーター」の乗り場前では、長崎港を一望にすることができる。
参考資料:宮本達夫・土田充義「長崎旧居留地の形成と変遷過程について」日本建築学会計画系論文報告集、他
開国後、周囲を埋め立て居留地の一部となった出島。
湊公園前の中華街入り口。唐人屋敷跡の大門も近い。
アクセス:イエズス会本部跡(長崎市江戸町)
モデルコース:イエズス会本部跡 → 出島 → 新地中華街 → 唐人屋敷跡 → グラバー園第2ゲート前
移動手段:徒歩