熊本
こぼれ話
熊本
こぼれ話
水俣の海
平成22年9月訪問
大阪に住んでいたころ、外出先で偶然水俣病の写真展が開催されていました。そこで被害者の人たちの姿を目にしたことが、個人的に水俣病を意識するきっかけになったように思います。
その数年後、添乗員の仕事に就いていた時、奈良県の高校の修学旅行で熊本に行く機会がありました。初めて湯の児温泉を訪れ、浜辺に面したリゾートムードが漂う温泉地で良い所だという印象を持ちました。ただ、そこが水俣市だと明確に認識したのは、ずっと後のことです。
さらにその数年後、町をちゃんと見ておきたいと思い、熊本の実家に帰省した際に水俣を訪れました。そこで驚かされたのが、かつて工場排水が垂れ流された水俣湾の岸壁から見た海水が、青く澄んでいたことです。夕暮れ時だったため、海の向こうの天草諸島越しに夕日が沈んでいくところでした。その風景の美しさに、ほぼ「公害一色」だった水俣のイメージは、すっかり覆されてしまったような思いがしました。
かつて工場排水で汚染された水俣湾です。
殿様気分が味わえる城跡
平成22年9月訪問
豊臣秀吉による九州平定は、天正15年(1587年)5月に薩摩の島津氏が降伏したことで成し遂げられました。佐々成政に対する「国衆一揆」が起こったのは、その2カ月後です。確立したばかりの豊臣政権に対する反乱という一面もありました。
さらにその5年後の天正20年(1592年)には、芦北町の佐敷城で、島津氏の家臣らによる「梅北一揆」が起こりました。梅北国兼は、加藤清正の支配下にあった佐敷城に使者を送り込みます。そこで秀吉の命により城を受け取りに来たと告げ、断られてしまうものの乱入して占拠します。しかし2日後に、酒宴の中で国兼は討ち取られ、一揆は鎮圧されました。
水俣取材の帰途で立ち寄った佐敷城跡は小高い山の上にありました。山頂には石垣などが残るだけですが、360度の風景が広がっています。眼下に佐敷の町、遠くには八代海(不知火海)、天草諸島などが見渡せます。幼いころに抱いていた、「殿様気分」を味わえたような気分でした。
城山山頂の城跡から見下ろす佐敷の町並みです。
日奈久の船着き場
平成22年9月訪問
八代市の妙見宮を取材した際、足を延ばして日奈久温泉を訪ねました。肥薩おれんじ鉄道の日奈久温泉駅で下車して、徒歩で温泉街に向かう途中、国道3号沿いの船着き場の前を通り掛かった時です。今にも道路に溢れてしまいそうなほどに、海水が満ちている光景を目にしました。
日奈久温泉では、相撲の土俵がある温泉神社や、豊臣秀吉が島津征伐で通ったという道などを見て、公衆浴場で温泉に浸って過ごしました。この地は「温泉はよい、ほんたうによい。ここは山もよし海もよし、出来ることなら滞在したいのだが・・・・・・、いや一生動きたくないのだが」と、俳人・種田山頭火に言わしめた所です。私も居心地のいい温泉地だと思いました。
帰途、駅に戻る際に再度船着き場の前を通り掛かると、底が見えるまで水が引いていました。わずか5時間ほど前には溢れそうなほど満ちていた海水が、です。八代海(不知火海)の大きな干満差に、山頭火も驚いたかもしれません。
潮が引いてしまっていた日奈久港の船着き場です。
五家荘への道
平成22年9月訪問
美里町にある霊台橋の取材を終えて、五家荘へ向かうドライブは少々ハードでした。国道218号から国道445号に入るとやがて道幅の狭い上り坂になり、カーブが延々と続きます。右手は森で、左手には高度が次第に上がっていくのが分かる見晴らしが広がっていました。
元は山だった所に、けもの道や杣道ができ、やがて道幅を広げる工事が行われ、地域の人びとの要望により、舗装してガードレールやカーブミラーが設置されたのでしょう。運転が大変な分、その工事の過酷さを想像してしまいます。それほどの山道だったので、クルマが止まってしまった時の心配も小さくはありません。二本杉峠を越えて広い道路に出た瞬間には、無事に上り切ったことに安堵しました。同時に、改めてこの国のインフラ整備が行き届いていることに、ありがたみを感じました。
なお数時間後に「緒方家」で見舞われるバッテリーあがりのハプニングを、この時の私は知る由もありません。
二本杉峠から見る北側の風景です。
砂月海水浴場の様変わり
平成26年7月訪問
牛深取材では、海の風景が短時間で一変する出来事がありました。
JR熊本駅近くのレンタカー店から牛深へ向かいました。途中、三角西港や四郎ヶ浜ビーチなどに立ち寄ったのですが、時折強い雨が降ったりして、天気はすっきりしません。日が傾き始めたころに現地に到着して、下須島の砂浜の写真を押さえておこうと、島南端の砂月海水浴場に向かいました。しかし、満ち潮の時間だったらしく砂浜はほとんど見えない状態です。翌朝の7時ごろに訪れた時も濁った海水が浜に打ち寄せるだけで、雲が広がった空には日が差す気配もありません。
やむを得ず町中に戻って他の用事を済ませていると、昼前になって晴れ間が出てきたので再々度、砂月海水浴場に向かいました。到着すると、目を疑いたくなるほどの風景が広がっています。その時に撮った写真が、本編「牛深」のメインカットです。数時間前の砂浜とはまったく異なる、感動ものの風景でした。
メインカット撮影の約4時間前の様子です。
大観峰のウシ
平成26年7月訪問
日没後に牛深取材を終えると、そのままクルマで阿蘇へ向かいました。大観峰からカルデラ内の風景を撮影するためです。阿蘇市中心部には真夜中の2時ごろに着き、早めに現地に到着して仮眠を取ろうと思いそのまま大観峰へクルマを走らせました。カルデラ内から外輪山の壁面を上る道はカーブが連続しています。途中、霧が出て次第に濃くなっていき、坂道を上り切っても濃厚な霧は晴れません。道端のスペースにクルマを停めて、運転席のシートを倒してしばらく仮眠を取ることにしました。
すぐに寝付くことはできましたが、ふと「何か」の気配を感じて目が覚め、漠然とした危険を感じつつ、反射的に身を起こしながら目を開けました。するとそこにあったのは、クルマの真正面からフロントガラス越しにこちらをのぞき込む、大きなウシの顔です。一瞬驚き、なぜかその勢いで、出発の準備を整えてしまいました。
ウシにたたき起こされたような思いを抱えながら、大観峰に向かいました。
目を開けたら、このウシの大きな顔がありました。
キリシタンの記憶
平成30年3月訪問
天草・島原の乱が起きたころ、天草四郎は現在の宇土市内に住んでいたそうです。現地を訪ねると中華料理店横の駐車場の片隅に、「天草四郎ゆかりの里」と刻まれた石柱が建てられていました。近くを通る県道297号を1キロメートルほど進んだ辺りは、キリシタン大名の小西行長が宇土城を築いた所です。宇土の地は行長の後、加藤氏、さらにその後を細川氏が支配し、天草・島原の乱を迎えます。
当初は許されていたキリスト教は、幕府の禁教政策により弾圧の対象でした。それをさらに徹底させることになったのが、この反乱です。
開国後に来日した外国人宣教師が、長崎で「日本二十六聖人」の殉教地を探しましたが、現地で情報は得られませんでした。発見の決め手になったのは、約260年前に書かれたフロイスの記録だったといいます。それほど、江戸時代のキリシタンに関する世の中の記憶は、なくなってしまっていたそうです。
宇土の町角に目立たずひっそりと立つ石柱です。
復興中の熊本城
平成30年3月訪問
「平成28年熊本地震」から丸1年が経とうとするころ、短期のアルバイトで熊本城に立ち入る機会がありました。大天守閣と小天守閣の間の石垣は崩れ、地面には割れた瓦のかけらが積み上げられています。見上げれば、大天守閣の屋根にしゃちほこはありませんでした。
私にとって熊本城は、幼いころ頻繁に目にした身近な存在です。地震までその姿はいつ見ても変わらないものでした。天守閣の被害の様子はテレビなどで見ていましたが、目の当たりにすると言葉を失うような思いです。
しかし被災して程なく、地元の人たちの間で復興を望む声が少なからず出てきました。県や国の支援もあり、熊本市によると熊本城に関する寄付金は、平成30年3月31日現在で約10万件、約35億円に上るそうです。こういうたくさんの人たちの「気持ち」が感じられることで、長い時間がかかっても、復興は成し遂げられるものと確信を持つことができています。
加藤神社から大小の天守閣や宇土櫓がよく見えます。
「西郷どん」の祖先
平成30年4月訪問
菊池市七城町の若宮神社境内に西郷公民館があります。その傍らには、徳富蘇峰による揮毫で「西郷南洲先生祖先発祥之地」と刻まれた石碑が建てられています。ここは、西郷隆盛の西郷家の発祥地とされる所なのです。
菊池氏の居城の菊池城には、「菊池十八外城」と呼ばれる複数の支城がありました。そのうちのひとつが若宮神社に城跡が残されている増永城で、菊池氏初代・則隆の子の政隆(西郷太郎)が城主でした。その子孫が薩摩へ移り、政隆から32代目が西郷隆盛といわれています。3年間を超える配流先の奄美大島で隆盛は、「菊池源吾」と名乗っていたそうです。石碑の傍らには、配流先だった奄美大島・龍郷町の「西郷塾」から贈られた、1本のヒカンザクラが植えられています。
ついでに、西郷どんとは関係ありませんが、若宮神社から程近い七城中学校は、漫画『天才バカボン』のパパの「母校」とされている所なのです。
建物の裏手が増永城址です。
陸路で目指した東京
平成30年6月訪問
西南戦争で、熊本城に向けて南下してきた官軍は、久留米(福岡県)を過ぎると、二手に分かれました。そこで私は、久留米からふたつのルートが合流する熊本市北区植木町までたどってみることにしました。ひとつは有明海側を通る国道208号、もうひとつは江戸時代に細川藩が参勤交代に利用した旧街道です。
国道208号は、福岡県内ではほとんど平坦な道が続き、熊本に入っても田原坂までは、コースを選べば大きな坂道はありません。旧街道は、南関町から山鹿市中心部へ向かいます。途中、腹切坂で急な上り坂が続き、「車坂」は長い下り坂でした。
薩摩軍からすれば、これらの道を逆方向にたどることになったでしょう。2月から3月にかけての寒い時期です。戦闘を繰り返しながらでは、特に旧街道のルートは相当過酷な行軍になっていたと思います。東京を目指していたのですから、わざわざ陸路を使わずに、船で向かった方が良かったのではないでしょうか。
急坂が続く腹切坂の積雪時は今も歩きづらいでしょう。