大分
こぼれ話
大分
こぼれ話
岡城跡と廉太郎
令和3年10月訪問
岡城跡を訪れて印象的だったのは、城の防衛力の高さを実感させられる切り立った台地上にある石垣の威容さでした。それともうひとつが、廉太郎の存在感です。駐車場に入る手前の道路沿いには、ピアノのオブジェが置かれており、壁面に音符が描かれていました。いずれも廉太郎にちなんだものです。
岡城跡を歩いていると、どこからともなく『荒城の月』のメロディが聞こえてきます。意識して耳を澄ましてみると、はるか下に見える川沿いの道路での、クルマの走行音のようです。
豊後大野市方面から国道502号で岡城の辺りまで来ると、「メロディ始まり」の標識が立っています。この横をクルマで通り過ぎた瞬間、メロディが始まります。道路の表面に細工が施され、聞こえてくるのは「春高楼の花の宴 めぐる盃かげさして」の部分です。車中でだけでなく、道路脇の駐車スペースで、通り過ぎるクルマが奏でるのを聞くこともできます。
木々が生い茂る台地の上が岡城跡です。
一度は利用したい場所
令和5年3月訪問
玖珠町総合運動公園の辺りからの伐株山は、見ていて飽きないユニークな山容をしていますが、標高686メートルの山頂にも楽しみがあります。
広々とした芝生の上に設置されたブランコは、通常より鎖が長いものです。町をはるか下に見ながらこいでいると、ちょっとしたスリルが楽しめそうです。
ブランコから少し離れた場所に、小さな建物が見えます。「KIRIKABU HOUSE」という無料休憩所です。室内には木のテーブルやカウンター席があり、一見、洒落たカフェのようです。崖の間際に建てられており、窓越しには牧野原・角埋山・大岩扇山・小岩扇山・宝山などのメサやビュートが玖珠盆地を取り囲む、大パノラマの風景が楽しめます。雑誌やテレビ、他の店でも見たことのないような、ぜいたくな眺めです。しかし、訪れた時は早朝だったため利用できませんでした。中の様子はよく分かるものの、またここに来て、一度は利用したいと思った場所です。
朝7時ごろのKIRIKABU HOUSEと玖珠盆地です。
漁港の魚群
令和5年5月訪問
鶴見半島の海沿いの道をクルマで走っていた際、一休みしようと通り掛かった小さな漁港に立ち寄りました。何げに海面をのぞき込むと、海藻の周りに数百匹ほどの小魚の群れを見つけました。30メートルほどの突堤を歩いてみると、他にいくつもの魚群があり、少し驚いたほどです。
「山しげらず候へば、いわし寄り申さず候旨聞き届け候」。毛利高政が元和9年(1623年)に、「浦」を守るため山焼きを禁止した触書の一部です。林野庁によると「魚つき保安林」は、「水面に対する森林の陰影の投影、魚類等に対する養分の供給、水質汚濁の防止等の作用により魚類の生息と繁殖を助ける」ものです。
写真は中越漁港の突堤の先端で見た魚群です。小魚の群れは、影になった所にとどまり、私が間近にいても、一向に逃げる気配はありません。そのことに、「魚付き林」の効果と、400年前の「佐伯の殿様」の考えが、現在まで受け継がれていることを実感できたような気がしました。
漁港の背後の山は豊かな木々に覆われています。
佐賀関と鶴崎
令和5年5月訪問
勝海舟の長崎出張に同行したのは坂本龍馬ら約50人でした。佐賀関でのことは、「十五日五時豊前(ママ)、佐賀関、着船。即ち徳応寺へ止宿。地役人、水夫、火焚へ酒代遣わす。惣計五両一分」と、海舟の日記にあります。
当日は、亭主役の讃岐屋、ご用聞きの苫屋、料理人の池田屋、給仕人の高田屋などと、町を挙げての歓迎を受けたようです。一行は徳応寺の他、小松屋・日向屋・嵯峨屋に分宿し、これらの店や宿などは現在の「関あじ関さば通り」やその周辺にあったもので、徳応寺は今も残っています。
翌日、一行は約20キロメートル離れた鶴崎まで移動しました。そこで海舟は日記に「十六日豊後鶴崎の本陣へ宿す。佐賀の関より五里」と記しました。大野川から約400メートル、乙津川のほとりの法心寺は、慶長6年(1601年)に加藤清正が建立したものです。当時その周辺に、熊本藩の参勤交代で使用された本陣や船着き場などがあり、町はにぎわっていたといいます。
肥後街道の起点だった鶴崎に立つ法心寺です。
大友宗麟とキリスト教
令和5年5月訪問
山口で布教活動を行っていたフランシスコ・ザビエルが、大友義鎮(宗麟)の招きに応じて、天文20年(1551年)9月に豊後を訪れました。この時、義鎮がザビエルに住居を与え布教を許可したことが、豊後でのキリスト教の始まりとされています。
義鎮は天正6年(1578年)に臼杵で受洗し、ドン・フランシスコの称号を与えられました。これより先、永禄5年(1562年)には入道して「宗麟」の号を得ています。一方で、領内のキリスト教への抵抗は強く、特に奈多八幡宮に生まれた妻の反発は激しいものがありました。入道したことも、ザビエルとの面会から受洗まで長い時間を要したことも、周囲に対する配慮があったのかもしれません。
晩年の宗麟は病を患い、天正15年(1587年)5月に津久見で亡くなりました。58歳でした。その時の様子を宣教師のラグーナは書簡で、「聖徒の如く死した」と述べています。豊臣秀吉の伴天連追放令が発せられたのは、その翌月でした。
樹齢100年を超す杉木立の中の大友宗麟公墓です。
杵築城の兜
令和5年11月訪問
杵築城でのことです。館内に入ると、誰でも簡単に手で触れることができる状態で、兜と鎧が台の上に置かれていました。少々違和感を覚えてしまうような置き方です。すると、係の方が私の傍らにいた男の子に向かって、「それ、かぶってもいいよ」「2キロあるから重いよ」と声を掛けました。男の子はお父さんに兜と鎧を身に付けてけてもらうと、笑顔で写真に納まっていました。私も実際に兜を手に取ってみましたが、頭にかぶるものにしては、かなりの重みがあります。
その兜は、300年ほど昔の足軽が使っていたもので、城郭が立つ「台山」の北麓、藩主御殿があった辺りで発掘されたそうです。当然ですがかなり古いもので、補修を繰り返しながら、展示物のひとつとして来館者に実際に手に取って見てもらっているとのことです。
思い返してみればこれまで見るだけだった本物の兜に、直接触れたとても貴重な体験でした。
兜と鎧は小柄な女性や子どものサイズ感です。
姫島の水
令和5年11月訪問
姫島の生活用水は雨水で賄われていると聞いて、「海の水を飲めるようにできないものか」と素朴な疑問がよみがえりました。海水は塩分濃度が高過ぎるため、そのままでは飲用に適しません。ヒトの細胞内の塩分濃度は0.9パーセントで、3.5パーセントの海水を飲めば、細胞内の水分が外に出てしまいます。海水を飲めば飲むほど、脱水症状が深刻化することになります。
ところで、海水を飲み水にする方法は「水の分離採取」と「塩分の分離除去」のふたつに大きく分けられます。現在最も有効とされているのが「逆浸透法」で、海水に圧力をかけて逆浸透膜でろ過して水を取り出すものです。ただし一般的な水不足の問題を解決するには、もっと画期的な技術の発展が必要だそうです。
姫島村民の生活用水は、ダムなどの整備により十分過ぎる水源が確保されています。一方で、海水の淡水化が当たり前になれば、姫島のような島は一転、水資源がとても豊かな場所になるでしょう。
島の周囲には周防灘や伊予灘の海原が広がっています。
日出城から見る別府の夜景
令和5年11月訪問
夜9時ごろに日出町を訪ねました。日出城址の石垣のすぐ先は別府湾です。「城下かれい」は、日出城辺りの海底の湧き水で育まれたマコガレイのことで、江戸時代には「殿様魚」と呼ばれた、広く知られるこの町の名物です。
ところで、夜に訪れたことで、ひとつ得をしました。別府の夜景を見つけたことです。函館や大阪など、私がこれまでに見た印象に残る夜景はいくつかありますが、別府のものはそれに加えたいひとつです。背後に鶴見岳や伽藍岳などの山並みの影が左右に続き、海岸線に沿って町の明かりが広がっています。それを日出城址の下から、別府湾の海面越しに眺める夜の景色は、ポートアイランドから見た、神戸の夜景のようでもあります。
美しい夜景は、大都市や特に有名な町のものしか知りませんでした。私には、別府は温泉の町で夜景のイメージはまったくなかったため、思い掛けないプレゼントをもらったようでした。
別府市内の十文字原展望台も夜景スポットです。
3度の取材
令和6年4月訪問
やまなみハイウェイの取材では、結局3度、現地を訪れることになりました。
1度目は昨年の3月です。玖珠取材を午前中に終え、午後にやまなみハイウェイの取材を予定していました。しかし現地に向かう途中で雨が降り始めてしまい、やむを得ず約70キロメートルの「ぐるっとくじゅう周遊道路」をドライブして帰途に就きました。2度目はその年の11月中旬、院内取材の後のことです。昼過ぎに水分峠を過ぎたのですが、道路の脇に少し雪が積もっているのを見掛け、長者原には雪景色が広がっていて、その先の道は雪に覆われていました。ドライブコースの紹介です、雪道では取材になりません。やむを得ず2度目もあきらめました。そして今回の3度目です。
2度の取材中止は残念ではあったのですが、決してそれだけではありません。1度目のドライブ中に八丁原の地熱発電所で雨の中に立ち上る蒸気の力強さを、2度目にタデ原湿原の雪景色をこの目にできたのは、幸運でした。
令和5年11月に訪れた時の長者原の様子です。
大分で温泉「ざんまい」
令和6年11月訪問
大分取材を開始したころ、「可能な限り温泉に入ろう」と意気込んでいました。しかし結局、利用したのは長湯、別府、玖珠と取材最終日に訪れた由布院だけでした。
竹田市の長湯温泉では川沿いに立つ御前湯の炭酸泉で、せせらぎを聞きながらの入浴。玖珠の山田温泉と別府の浜田温泉では、湯船の中で地元の人たちと言葉を交わして過ごしました。由布院の乙丸温泉ではわずか十数分間の大急ぎの入浴だったのですが、その後の体調が良かったように思います。いずれも日帰りの共同浴場で、料金も数百円だったのですが、満足度は低くはありませんでした。
湯平、天ヶ瀬、星生、姫島の拍子水など、行きたかった温泉はいくつもあります。数度の大分訪問だったにも関わらず、わずか4カ所の温泉しか入れなかったことは残念です。ただ、これはこれで良しとします。小さな心残りにしておくことで「またいつか訪ねたい」と小さな望みにもなる、私なりの旅の楽しみ方です。
乙丸温泉はJR由布院駅から300メートルほどの所です。