はるのつじいせき
原の辻遺跡
~「倭人伝」が語る島の都~
はるのつじいせき
原の辻遺跡
~「倭人伝」が語る島の都~
一支国博物館へ向かう途中の坂道から見る原の辻遺跡。
「又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國官亦曰卑狗副曰卑奴母離方可三百里多竹木叢林有三千許家差有田地耕田猶不足食亦南北市糴」。この57文字が「魏志倭人伝」の壱岐についての記述である。竹や木が茂り3000ほどの家と、少しの田地があるが食料には足らず、南北の国々との交易を行っていたことなどが読み取れる。
「魏志倭人伝」が触れた30の倭国(日本)の小国の中で、国と都の位置が確定されているのは、壱岐の原の辻のみ。
原の辻遺跡は、2000年ほど以前に栄えたという集落。丘陵の最頂部に祭儀場、やや低くなった所に外国人のための居住域があり、それを多重環濠で取り囲んだ外に庶民が暮らした。初期の発掘調査では10万点以上の遺物が出土している。
当時の人びとは手漕ぎの丸木舟で、半島や大陸と日本本土を往来した。内海湾から幡鉾川を2キロメートルほどさかのぼった所で船着き場が発見されている。約12メートルの2本の突堤と荷揚げ場などからなるもので、東アジア最古。当時、その周囲に市が立ち、中国や朝鮮半島の青銅品や鉄器、日本の海産物や農産物などが取り引きされ、内外の人びとでにぎわったという。
「一支国博物館」の展望所の前方に広がる深江田原の平野部を、島最高峰の岳の辻(標高213メートル)などの低山が取り囲む。その中でやや盛り上がった丘陵部に、物見櫓や高床式の倉などが復元された、原の辻遺跡の集落が見える。
参考資料:山尾幸久『魏志倭人伝』講談社、他
内海湾を経て内外の人びとが往来した幡鉾川。
王が住んだ館。「倭人伝」は壱岐を「一大」と記す。
アクセス:原の辻遺跡(壱岐市芦辺町)
紹介スポット:原の辻遺跡・一支国博物館
移動手段:徒歩またはクルマ