にしざかへのみち
西坂への道
~二十六聖人最後の道~
にしざかへのみち
西坂への道
~二十六聖人最後の道~
キリシタンらは時津の船着き場の夜を船上で過ごした。
スペイン船の漂着をきっかけに、豊臣秀吉は禁止していたキリスト教を布教したなどとしてキリシタンの処刑を命じた。
捕らえられたキリシタンらは、左の耳たぶをそぎ落とされ、京・大坂・堺の町を引き回された。さらに山陽道を歩き、大村湾東岸の彼杵の船着き場で小舟に分乗させられ、時津到着は2月4日夜11時ごろ。時津から西坂まで26人が歩いたと考えられる道は、「時津街道」や「浦上街道」の標識をたどる約10キロメートル。コースは主に国道206・202号を縫うように延びる。打坂峠を越えると緩い下りが続き、浦上の辺りから上り下りを繰り返す。刑場に近くなるころの26人は、腫れて深くただれてしまった足を、引きずるように小さな歩幅で進んでいたという。
当時、長崎に居住していたルイス・フロイスが処刑の様子を記している。
「十字架がしっかりと固定された後、刑執行人が十字架につけられた人を槍で突き刺し、槍の穂先が右側から入って心臓を通って左側へ出て体を貫いた。ある場合には、二人の執行人が各自槍をもって両側から刺し、穂先が胸で交叉して鎖骨に突き出る。日本の槍穂は幅広く、長柄のうえによく切れるので、すぐ傷口からどくどくと血が流れ、体が震えて間もなく絶命する。その槍で死なない時には首を突き刺し、または心臓めがけて左側から胸を突き刺す」
一行の西坂到着は午前9時半ごろ、昼前に処刑は終了していた。
参考資料:ルイス・フロイス『日本二十六聖人殉教記』聖母の騎士社、キリシタン文化研究会「キリシタン研究 第8輯」吉川弘文館、他
京都から長崎まで34日間、800キロメートルを超えた。
処刑後の遺体は十字架の上で夏まで放置されたという。
アクセス:時津港(時津町浦郷新地)
モデルコース:時津港 → 西坂公園
移動手段:徒歩