いまいち
今市
~勝海舟らが歩いた石畳道~
いまいち
今市
~勝海舟らが歩いた石畳道~
岡藩藩主・中川秀成のころに今市の宿場が整備された。
文久3年(1863年)4月、幕府は翌月10日の攘夷決行を諸藩に布告。当日、長州藩は下関海峡を航行中のアメリカ商船を、同月23日と26日にフランス軍艦とオランダ軍艦を砲撃。翌月その反撃を受けた。
幕府は下関における諸外国のさらなる攻撃を猶予させるため、翌文久4年2月5日、京都の二条城において軍艦奉行並の勝麟太郎(海舟)に長崎行きを命じた。
同10日に京都を立った勝は、同14日に神戸から海路豊後を目指した。一行は、翌日佐賀関に上陸して1泊すると、鶴崎・野津原・久住に宿を取り、熊本を経て島原に渡海し、同23日長崎に到着。4月4日に長崎を立った帰路も往路と同じで、再び久住に入ったのは同8日。翌日野津原に宿泊、11日に佐賀関から出港し豊後を離れた。
勝一行が歩いた豊後の道は、熊本藩の飛び地を含む肥後街道。関ケ原の戦い後、肥後54万石の領主になったのが加藤清正。清正は参勤交代で瀬戸内海を利用するため、天草2万1760石と、熊本から鶴崎までの道筋に当たる久住・野津原などの2万108石を交換。それが細川氏に受け継がれた。
鶴崎から熊本まで約124キロメートルの肥後街道の途中、今市地区に幅2.1メートル、全長約660メートルの平石が敷き詰められた石畳道が現存する。往時は本陣、脇本陣、代官所や茶屋などが立ち並び、勝たちも目にしたであろう、今も残る丸山神社の楼門が旅人たちを出迎え、宿場町として繁栄した。
参考資料:勝部真長・他『勝海舟全集』勁草書房、他
享保5年(1720年)に建てられた丸山神社の楼門。
鍵型の道は先が見通せないようにするための工夫。
アクセス:今市の石畳道(大分市今市)
紹介スポット:今市の石畳道