長崎
こぼれ話
長崎
こぼれ話
背を向けたキリシタン像
平成30年11月訪問
原城本丸跡に立つ十字架の後ろは崖になっています。設けられた柵の外には、小さな3体のキリシタン像が背中をこちらに向けて置かれています。その後ろ姿を見ていると、正面からの姿も見たくなってきますが、柵の中に入るわけにもいきません。少々もどかしさを感じさせられます。誰が、いつ、何のために置いたのか、地元の方に尋ねてみましたが、分からないそうです。そこで像の視線の先にある、天草(熊本県)の大矢野島と湯島に行ってみましたが、何も分かりませんでした。
数年にわたる凶作や、それでも容赦のない権力による収奪や弾圧で、変わらない苦しい生活に強いもどかしさを感じた人は少なくなかったでしょう。その揚げ句の、救いを求めての信仰であり、蜂起だったのかもしれません。
原城本丸跡で感じさせられた小さなもどかしさは、島原・天草一揆で亡くなっていった人たちをしのぶ、よすがのような気がしました。
像は、30年以上はここにあるそうです。
フロイスの日本生活の始まり
令和5年1月訪問
フロイス著『日本史』の日本語訳が出版されたのは昭和52年でした。基となったのは、ヨーロッパ各地に散逸していたフロイスによる日本に関する記録の写しです。訳者が各地を巡って収集したものでした。内容は、信長や秀吉などの権力者のみならず、一般庶民とも直接関わったフロイス自身の見聞などをまとめた、膨大な記録です。江戸時代の禁教政策により、キリスト教関連の資料はことごとく失われていたこともあり、とても貴重なものです。
フロイスが1563年7月6日にポルトガル船で宣教師として来日し、初めて上陸した所が西彼杵半島北端の横瀬浦でした。当時、この小さな集落に全国からキリスト教徒や商人らが集まり、クリスマスや復活祭の祝いは盛大に行われたそうです。
フロイスもこの地で改宗を望む者たちに洗礼を授けていました。しかし上陸した翌月に焼き討ちに遭います。後半生のほぼ全てを日本で過ごしたフロイスが、その生活を始めてわずか42日目のことでした。
八ノ子島の十字架が入港する異国船の目印でした。
大村湾の静けさ
令和5年2月訪問
ふたつの瀬戸でのみ外海とつながった湖のような大村湾は、通常はとても穏やかな海なのでしょう。私が最初に大村湾を見たのは、夜間に湾沿いの道路をクルマで走っていた時です。ほとんど波はなく、水面に月を映し出した静かな海でした。東彼杵町の「日本二十六聖人乗船場跡」に立ち寄ったのは、その翌日の午後2時ごろです。彼杵川河口右岸の先端近くに立つと、かすみがかかった山並みが遠くに見え、音を立てれば辺りに響くような静けさでした。
26人が時津に向けて船出したのは夕方ごろ、「月が光り始め、岸には漁村の灯火が見え、舟は単調な艪の音を響かせ、静かに水面を分けていった」そうです。私が見た時と同じように、海はとても穏やかだったのでしょう。
2月上旬の夜11時ごろと朝6時ごろに時津の船着き場を訪れ、時津から西坂まで歩いてみました。「大村湾の静けさ」以外、26人が感じたかもしれないことを、感じ取れたと思えたことはありませんでした。
彼杵川河口の先端は乗船場跡の石碑からすぐの所です。
風頭山の龍馬像
令和5年2月訪問
夕方に「長崎港」の取材を終え、風頭山に向かいました。寺町通りの深崇寺横の道に入り坂を上り、「亀山社中の跡」を外から見て、さらに数分歩いた所が風頭公園です。そこに人けはありませんでしたが、ライトアップされた長崎港を望む「坂本龍馬之像」がありました。
勝海舟の出張の供として、元治元年(1864年)2月23日に龍馬は初めて長崎を訪れました。その翌年、慶応元年の亀山社中の立ち上げであり、慶応2年の薩長同盟であり、そして慶応3年の大政奉還です。龍馬の最初の長崎訪問の年、軍艦28隻、商船198隻、計226隻の外国船が長崎港に入港したそうです。龍馬は長崎港に浮かぶ外国船を目の当たりにして、国の存亡の機を実感し、何か強い思いを植え付けられたのかもしれません。
龍馬が長崎を離れたのは、慶応3年(1867年)9月18日です。最初の訪問からおよそ3年半、その約2カ月後に龍馬がいた場所が京都の近江屋でした。
風頭山山頂の展望台から龍馬の像と長崎港が見えます。
天正遣欧使節の4人のその後
令和5年9月訪問
豊臣秀吉による天正15年(1587年)の「伴天連追放令」は、天正遣欧使節の4人に環境の激変をもたらしました。
伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノの4人が長崎を出港したのは天正10年(1582年)1月です。リスボン(ポルトガル)に到着したのは天正12年7月です。大歓迎の中、ヨーロッパ各地を巡り、ポルトガル国王でもあるスペイン国王のフェリペ2世や、ローマ法王のグレゴリウス13世への謁見も果たします。出発から8年半を経て帰国した時は、伴天連追放令が出された3年後です。
それからの4人の人生もそれぞれでした。伊東マンショは慶長17年(1612年)に司祭の身分のまま病死、その2年後に原マルチノはマカオに追放されます。千々石ミゲルは棄教し迫害者側の立場になり、行方不明になったそうです。そして、布教中に捕縛された中浦ジュリアンの最後は、寛永10年(1633年)10月の西坂で、拷問の果ての殉教でした。
「中浦ジュリアン記念館」のジュリアン像です。
見える異国と見えない国境線
令和5年10月訪問
日没後、対馬北部の千俵蒔山中腹部にある「異国の見える丘展望所」を訪ねました。約50キロメートル先の対岸には、韓国第2の都市・釜山の光が見えます。設置されていた望遠鏡をのぞき込むと、映っていたのは高層ビル群でした。30年以上前に訪れた、マンハッタンや香港の町並みを思い出させるような光景です。
博多港からフェリーで壱岐を経て対馬に到着し、レンタカーで険しい山々の合間に通る道路を走り、「日本の端」のこの地までやって来ました。展望所から見える釜山の高層ビル群との間の海峡には、目には見えませんが国境線があります。日本では見ることのない、高層ビルが並び立つ光景はまさに「異国」です。上対馬でロシア兵の上陸の跡、壱岐の芦辺港近くでは「蒙古720年記念樹」を見ました。本土の生活の中ではほとんど実感したことのない、「異国」の身近さを感じました。
なお展望所には照明がないので、日中の訪問をおすすめします。
海の向こうに見えるのは朝鮮半島の韓国・釜山です。
三浦按針の最期
令和6年1月訪問
私が「ウィリアム・アダムス」と「三浦按針」の名前を始めて知ったのは、東京で旅行誌の編集の仕事をしていた時です。伊豆半島の伊東のページを担当し、その個性的なモニュメントが強く印象に残りました。当時の私の住まいは、横浜市の京浜急行金沢文庫駅の近くでした。4つ隣に「按針塚」という駅があり、按針が徳川家康から与えられた250石の所領がその辺りです。
今回の取材で、按針が日本列島西端の平戸で亡くなっていたことを初めて知りました。崎方公園の「三浦按針之墓」の背後にはイギリス大使とオランダ大使により記念植樹が植えられ、「ANJINローズガーデン」と名付けられたバラ園も設けられています。按針に対する、人びとの思いが感じられるようです。
大航海時代に生きた按針はオランダ船に乗り、結果的に日本に来ました。帰国しなかった理由はさまざま考えられるようですが、「故郷に錦を飾る」ため、まだ帰れなかったという見方もあるそうです。
1620年5月16日、按針は57歳で亡くなりました。
クジラが泳いだ海峡
令和6年1月訪問
30年ほど前、捕鯨基地がある千葉県外房の和田浦を訪ねました。宿の女中さんから、「今も沖合ではクジラが泳いでいますよ」と聞き、それが初めてクジラの存在を実感した時です。
令和2年12月にクジラの加工工場に勤務した際には、いくつかの小さな驚きを受けました。クジラについて調べてみると、おおよそ、体長5メートル以下のものを「イルカ」、5メートルを超えるものを「クジラ」と呼ぶそうです。冷凍された切り身の状態で仕入れられる鯨肉の皮の色は、人工的に色付けしたようにきれいな黒色をしています。魚の尾ビレに当たる「尾羽(おば)」は、片手では持ちづらいほど大きくて重いものです。
長崎でもかつては捕鯨が行われていました。平戸は壱岐や五島と共に盛んだった所です。江戸時代、生月の益富組は日本最大規模を誇る鯨組でした。当時、生月島の沿海では冬に南下する「下り鯨」、春に北上する「上り鯨」が、泳いでいたそうです。
生月大橋が架かる海峡もクジラの回遊ルートでした。
島原港のイルカ
令和6年12月訪問
ふと思い立ち、島原への日帰り旅行をしました。フェリーが島原港に近づくに連れて迫るように見える、「島原大変」で大崩壊した眉山の山容をカメラで撮影していた時です。何げに水面に目を向けると、イルカの群れが背ビレを見せているところでした。後で地元の人たちに尋ねると、「聞いたことがない、口之津なら・・・・・・」という返答ばかりです。
島原半島南端の口之津から、イルカウォッチングの船が出航しています。口之津と天草(熊本県)の間の早崎瀬戸に、約200頭の野生のイルカが生息しており、年間を通して高確率で見ることができるそうです。6月から8月にかけての時期が最も遭遇率が高く、10月・11月は行動範囲が広くその確率も低くなるようです。私が島原港でイルカを見たのは12月中旬でした。
イルカウォッチングの関係者の方に聞いたところ、冬場はエサを求めて遠くまで行くことがあり、過去には佐賀県太良町の沖合での目撃情報もあったそうです。
島原港入港の約5分前にイルカの群れと遭遇しました。