みずき
水城
~白村江の戦いの後~
みずき
水城
~白村江の戦いの後~
水城跡展望台から西南方面に延びる水城を望む。
7世紀半ばの朝鮮半島は新羅・高句麗・百済の3カ国が分裂していた戦乱の世。
660年、百済は唐・新羅連合軍により滅ぼされ国王は捕虜となった。百済兵らは日本に協力を求めるとともに、人質の王子・豊璋(ほうしょう)の返還を要求。日本軍は百済救援のため出兵し、天智天皇2年(663年)、朝鮮半島の白村江で唐・新羅軍と戦ったのが白村江の戦い。しかし日本はこの戦いに敗れ、撤退する際に百済の亡命貴族らを連れ帰り、彼らを登用して唐・新羅軍からの攻撃に備えた。
水城が築かれたのはその翌年。長さ約1.2キロメートル、幅約80メートル、高さ約10メートルの土手と、その前後の水堀からなる。博多湾から南東へ続く福岡平野の最も狭い所を水城でふさぎ、大宰府の城壁とした。博多側の壁面が崩れるのを防ぐため、土手の上部の層は大宰府側へ下りの傾斜がつけられるなど、さまざまな工夫がされている。単純な盛り土ではない。
天智天皇4年(665年)には現在の大野城市・太宰府市・宇美町に広がる四王寺山(標高415メートル)に朝鮮式山城の大野城が築かれた。山麓の大宰府政庁跡南約10キロメートルの基山(標高404メートル)にも、基肄城跡(佐賀県基山町)が残る。
水城東門跡に「水城跡展望所」があり、木々の中を10分ほど歩いた「水城跡展望台」からは水城の全容が一望。JR水城駅そばに「土塁断面ひろば」、さらに徒歩数分の所に西門跡がある。
参考資料: 「水城跡」太宰府市教育委員会、他
東門跡から県道112号を渡った水城。
「土塁断面ひろば」から水城の上や周囲を散策できる。
アクセス:東門跡(太宰府市国分)
紹介スポット:東門跡・水城跡展望台・土塁断面ひろば・西門跡
移動手段:クルマ・徒歩