さいき
佐伯
~「佐伯の殿様浦でもつ」~
さいき
佐伯
~「佐伯の殿様浦でもつ」~
「空の展望所」から見る米水津の入り江。
江戸時代、伊勢参りの流行に伴い広まった「伊勢音頭」の「尾張名古屋は城でもつ」という歌詞が、佐伯では「佐伯の殿様浦でもつ」となった。
「佐伯の殿様」とは佐伯藩の藩主・毛利氏のこと。初代高政は、元は森姓だったが、豊臣秀吉による「中国攻め」の際、毛利氏へ人質に差し出されると、輝元に気に入られ毛利姓を名乗るようになったという。日田郡隈(玖珠町)2万石を与えられるものの関ケ原の戦いで西軍につき、慶長6年(1601年)、佐伯に領地替えされた。
農地に恵まれない佐伯に入った高政は漁業振興のため、山焼きを禁止して山林資源の保護をした。これが「魚付き林」である。木々を守り海岸の水面に影をつくることでイワシが寄り付きやすくし、山から海へ栄養をもたらす。これは現在の「魚つき保安林」として受け継がれている。そのきっかけは、蒲江の漁師・源太夫(後の御手洗玄太夫)が高政に、「イワシは佐伯の富の源」と申し述べたことによる。
佐伯には入り組んだリアス式海岸が続き、多くの小さな「浦」に漁村が形成された。現在も佐伯市の海沿いの道路をクルマで走ると、びっしりと木々が覆う山々が続き、いくつもの小さな漁港を通り過ぎる。
当時、佐伯の干鰯は近畿地方の綿花栽培に不可欠な肥料だった。干鰯はイワシを煮て脂を絞って干したもの。「佐伯の殿様」はこの漁獲や製造・運搬などに課税し、佐伯毛利氏は明治初期まで12代続いた。
参考資料:『米水津村誌』、『鶴見町誌』、他
高政はイワシが寄り付かないとして山焼きを禁止した。
城山山頂は船舶の監視にも適した立地だった。
アクセス:佐伯城跡(佐伯市城山)
紹介スポット:佐伯城跡・空の展望所・海沿いの道路
移動手段:クルマ