佐賀
こぼれ話
佐賀
こぼれ話
古代人の存在感
平成27年8月訪問
本編の「吉野ヶ里遺跡」で触れた「展示室」の甕棺は、大人の遺体を納めるためそれなりに大きなものです。驚いたのが、複数の甕棺はいずれも均整の取れた形で、口の所もきれいに平らに整えられていたことです。まるで規格化された大量生産品のようでした。他にも、鮮やかな色で染められた衣服や、形の整えられた装飾品などの展示があります。係の方は、「生活に関するもののレベルは、今と大きな差はないのでは・・・・・・」と、言われていました。展示品を見た後だけに、まったくその通りだと思いました。
園内には、「火おこし体験」のコーナーがあります。古代の人たちは、火をおこす技術は普通に持っていたように思いますが、現代人の多くは文明の利器がなければ火を得ることは難しいでしょう。
社会は進歩しても個人の能力は退化している部分もあるのではと思いつつ、古代の人たちの存在感が以前よりグッと近づいたように感じました。
華やかで色鮮やかな古代人の衣服です。
不老不死の薬
平成27年8月訪問
取材中に「徐福」の足跡を2度見掛けました。1度目は「葉隠発祥の地」へ向かう途中、長崎自動車道近くの徐福を祭る金立神社下宮です。2度目は三重津海軍所跡へ向かう際に見た、「筑後川昇開橋」の袂の徐福像でした。
紀元前219年、秦の始皇帝に命じられて「不老不死の薬」を探すため、徐福は「東方」へ向かったそうです。諸説あるようですが、有明海から筑後川をさかのぼった佐賀市諸富町の辺りが徐福の上陸地とされています。佐賀市は出航地の中国・慈溪市に、徐福が愛したという「お辰さん」の陶板を贈りました。そのお返しに贈られたのが、高さ5メートルほどの徐福像です。
金立神社の説明板によると、徐福は金立山山中で不老不死の薬を探しあぐねていたところ、天女が現れて薬を授けられたそうです。上陸地から金立山まで、ほぼ平坦な道が続きます。道の先に見える山に不老不死の薬があると思いながら、徐福は歩いていたのでしょうか。
佐賀市中心部の北、背振山地の金立山へ向かう道です。
脊振山の「クマ」
平成29年5月訪問
脊振山でツキノワグマが目撃されたニュースを、霊仙寺に向かう途中の山中で思い出しました。クマといえば、平成4年に群馬県嬬恋村のキャベツ農家での、アルバイトを終えて東京に帰る時のことです。上田市に立ち寄るため、県境の山を歩いて越えることにしたのですが、その時も山中で「あの山はクマが出る」と、農家の方から言われていたのを思い出しました。
幸いクマとは遭遇しませんでしたが、恐怖を感じることがあったのです。やや見通しが利く森を歩いていた時、突然「ドンッ」と重く大きな音が聞こえました。3メートルほど前方で、シカらしき動物が反転して走って逃げて行くところです。その地面を蹴る音が聞こえて姿が見えなくなるまで、3秒もかかっていなかったでしょう。野生動物の力強さと瞬発力とスピードに、人間が太刀打ちできるものではないと本能的に思いました。
緊張感のある取材となりましたが、その正体はアナグマだったそうです。
霊仙寺へ向かう途中の脊振山中の道です。
お菓子と佐賀
平成29年5月訪問
森永製菓と江崎グリコといえば、日本を代表するお菓子のメーカーですが、いずれも創業者は佐賀の人です。伊万里の陶器卸業者の家に生まれた森永太一郎は24歳の時、焼き物を売るため渡米しますが、挫折してしまいます。そこで目を付けたのが洋菓子でした。太一郎は約12年間の工場勤務などを経て明治32年に帰国後、東京・赤坂に洋菓子製造会社を設立しました。一方、現在の佐賀市の薬種業を営む家に生まれた江崎利一は、大正10年に牡蠣(かき)から抽出したグリコーゲンを、キャラメルに入れて製品化しました。これが「グリコ」の始まりです。
本編の「小城」で述べましたように、佐賀は江戸時代に長崎から砂糖や南蛮菓子がもたらされたことにより菓子文化が根付きました。しかし、大手お菓子メーカーの創業者を2人も輩出したこととは、直接的に関係はないようです。
そのことで、かえって佐賀の奥深さを感じさせられたような気がしました。
伊萬里神社の森永製菓創業者・森永太一郎翁像です。
焼き物の三大ブランド
平成29年5月訪問
「唐津焼」と「伊万里焼」と「有田焼」は、広く知られている有名な焼き物の名称です。唐津焼は陶器、他のふたつは磁器ですが、伊万里焼については、性格がまったく異なる、「古伊万里」と「鍋島」のふたつに分けられます。
「古伊万里」は主に庶民やヨーロッパなどへの輸出のためのもので、一般に「伊万里焼」と呼ばれるものです。「鍋島」は藩営の窯でお金に糸目をつけずに焼かれた、皇室や将軍家、大名への献上品などに用いられた最高品質のものです。その芸術性は景徳鎮に並ぶとさえいわれます 。陶石は伊万里では採れませんので、有田で採掘された特に質の高い石が使われたそうです 。
取材では、唐津から伊万里、有田とたどりました。3つの焼き物の産地であるこの3つの市と町は、佐賀県北西部で連なっています 。日本列島の西の端っこのエリアで、日本を代表する焼き物の三大ブランドが生み出されたのです。再び佐賀の奥深さを見せつけられたような思いがしました。
相生橋に置かれているオウム像の横の道です。
和泉式部のふるさと
平成29年5月訪問
紫式部や清少納言らと共に「中古三十六歌仙」の1人に数えられる平安時代の歌人・和泉式部は、一説によると佐賀の人でした。白石町の福泉寺に子宝祈願に訪れた、嬉野塩田郷の商家の夫婦に引き取られ育てられました。幼いころから歌を詠み、優れた作品はその美しさと共に評判になり、9歳から宮廷に仕え「和泉式部」と称されるようになります。「式部」とは宮廷に仕える女性の役人のことです。
その後、彼女はこの地に帰って来ることはありませんでしたが、次の歌を残しています。「ふるさとに帰る衣の色くちて 錦の浦や杵島なるらん」。この歌に感動した天皇から褒美として、養父母に5町の田んぼが与えられました。それが「五町田」の地名の由来といわれています。
嬉野市塩田町の「和泉式部公園」は、高台から五町田の町を眼下に望む公園です。園内には和泉式部の立像が置かれており、その整った顔立ちに彼女の美しさがしのばれるようです。
その美貌ゆえか、恋多き人生だったそうです。
恋する山
平成29年5月訪問
日が傾き始めたころ、杵島山の歌垣公園に到着しました。人里離れた山の中腹にある夕暮れ時の公園では、2人のおばあちゃんを見掛けただけです。写真を撮っていると、「どこから来たの?」と、男1人でいる私は声を掛けられました。さらに「おひとり?」と尋ねられたので、「そうです」と答えると、「あら、もったいないわね」と小さく笑っていました。
しばらくして2人は公園を後にし、私はそのまま撮影を続け、日が暮れて暗くなってきたので、撮影を終え引き揚げることにしました。
クルマに戻るとシートベルトを着け、エンジンをかけ、人心地ついて、缶コーヒーを飲もうとふたを開けた時、ふと思い出しました。ここは歌垣の山で、昔、出会いを求めて男女が集まった、「恋する山」であることを。そしておばあちゃんの「あら、もったいないわね」という言葉が頭によみがえりました。缶コーヒーを持つ手は、止まっていました。
万葉の時代につづられた恋の歌を刻んだ石碑です。
佐用姫伝説の地
平成29年5月訪問
「日本三大悲恋伝説」というものがあるそうです。「羽衣伝説」と「浦島伝説(または「竹取物語」)」、そして唐津が舞台の「佐用姫伝説」です。
一説に佐用姫は「厳木(きゅうらぎ)」という山深い所で生まれました。JR唐津線の厳木駅から約2キロメートル、厳木多久道路牧瀬インターチェンジ近くの「道の駅厳木」に、大きな佐用姫の立像が建てられています。そこから国道203号で北へ20キロメートルほど、虹ノ松原のビュースポットの鏡山山頂にも佐用姫像があります。
朝廷の命令により朝鮮半島へ向かう途中、厳木の地に滞在した大伴狭手彦は、世話を受けた家の美しい娘と恋に落ち、結婚をしました。その娘が佐用姫でした。別れの日、佐用姫は鏡山山頂から狭手彦が出航するのを遠くに望み見て、「領巾(ひれ)」を振り続けたそうです。そして、悲しみのあまりそのまま名護屋まで追いかけ、加部島で石と化してしまいました。佐用姫に感情移入すれば悲しい話です。
道の駅厳木の佐用姫像は高さ10メートル以上あります。
玄海原発にて
平成29年5月訪問
名護屋城から浜野浦に向かう途中、玄海原子力発電所の見学施設に立ち寄りました。館内に入るとすぐ、係の女性に案内を申し出てこられました。平成12年にも、静岡県掛川市の浜岡原発を訪れたことがあります。その際、係の方の対応が来館者に対して気を使われているように感じましたが、玄海でも同じような印象でした。
原発の存続については、平成23年に福島原発での事故が起こる以前からも厳しい声がありますが、その影響もあるのかと漠然と思いました。
現状では、廃棄物の問題だけでも原発はいずれはなくなるべき「過渡的手段」でしょう。一方で、日本の原子力産業に従事している人は8万人以上といわれます。その中には、日本のエネルギー事情を考えて原子力を「志した人」もいると思います。そういう人たちの生かし方を考えることも、代替エネルギーの確保と共に、原発をなくすために必要なことではないかと、玄海原発で思いました。
名護屋城跡から、さらに西側に遠望する玄海原発です。
嬉野の湯
平成29年5月訪問
佐賀県南部の取材は、少々ハードでした。夜の10時ごろに武雄でレンタカーを借りて、県南端の太良町まで行き、仮眠を取って夜明けと共に動き出しました。竹崎城址などを訪ねた後、祐徳稲荷神社、嬉野温泉、杵島山などを巡り、移動しっぱなしの状態です。
嬉野温泉では、到着してすぐに公衆浴場の「シーボルトの湯」で温泉に浸った後、町中で足湯を見つけました。適度な疲れと、お風呂に入って間もなかったせいか、足を湯に浸すとやがて異常なくらいに気持ち良くなってきました。
この時、頭に浮かんだのが「温泉はよい、ほんたうによい。出来ることなら滞在したい・・・・・・ 」という、熊本の日奈久温泉を訪れた種田山頭火の言葉です。私も「このまま泊まりたい」と思いました。家族連れが来たのをきっかけに足湯を離れることができましたが、予定がなかったら滞在していたかもしれません。それくらい気持ちの良い嬉野の湯でした。
嬉野橋の袂に立つ「シーボルトの湯」。日帰り入浴可。