豊前街道へ
内空閑城址公園 → 清水菅原神社 → 乙貝坂 → 豊前街道
内空閑城址
国道208号と県道3号を結ぶ山越えの道。
豊岡橋から国道208号を植木の中心部へ向かい、右へ大きくカーブした後の三差路を左折して、山越えのコースに入る。森の中を抜けて道なりに進むと県道3号との交差点。左へ折れるとやがて内空閑城址公園の看板が見えてくる。
県道3号から城址まで上りの道が続く。
山道を1キロメートルほど登った山頂が内空閑城址。小さな祠の背後に尾根が続き、三方は木々の間から町を見下ろす。北側には、内空閑氏8代鎮資(しげすけ)を祭る内空閑神社が見える。
一説に南北朝時代末期、伊賀国(三重県)の服部基貞(もとさだ)が下向し、名を内空閑に改め城を築き、菊池氏の家臣としてこの地域を支配したという。
地元で「しろんこし」と呼ばれる内空閑城址。
天正3年(1575年)に鎮資が亡くなった跡を弟の鎮房(しげふさ)が継ぐものの、鎮照(しげてる)が生まれると、やがて所領を二分する内紛となる。その後、天正9年に薩摩の島津氏に攻められ内空閑城は落城。豊臣秀吉の支配になると、国衆一揆平定後の天正16年、豊臣軍の安国寺恵瓊の策謀により、鎮房と鎮照が死に至らしめられ、内空閑氏は滅亡した。
神功皇后伝説と豊前街道
清水菅原神社に湧き出す地下水。
県道3号を和水町方面へ進んだ右手に清水菅原神社がある。石橋が架かる池の傍ら、神功皇后にまつわる伝説が残る「御手洗さん」と呼ばれる小さな池に清水が湧く。この水は千田川の流れとなり、7キロメートルほど下流で菊池川に流れ込む。皇后は、千田川下流の聖母八幡宮の近くに船を着けて川上に向かって歩き、水の元はどこかと矢を放つと、その矢が刺さったというのがここ。皇后が湧水で手を洗い身を清めたことから名付けられたとされる。なお池の石橋は、千田川下流に架けられていた乙貝橋が移築されたもの。
皇后の右足の形という清水菅原神社の池。
「駄の原」バス停の先を右斜め前方へ入り、高速道路の高架をくぐりしばらく進むと山鹿市との境。七之宮の鳥居前を過ぎて鉄塔の脇道を走った先で右に折れると、やがて「豊前街道」の文字が見える。標柱には「乙貝坂」とも記されており、往時は難所だった所。
豊前街道は、熊本城下の札の辻と豊前国小倉(北九州市)を結ぶ、江戸時代の主要道。かつて豊前国領主として小倉に本拠を置いていた細川氏は、参勤交代などで40回以上この道を利用したという。
この坂を下ると千田川の乙貝橋。
乙貝坂からは一旦、道を戻り、約1.6キロメートルほど走り県道119号に出る。左へ折れ約400メートルの所の小さな交差点は山鹿市との境。右に入ると、「豊前街道」と記す標柱が立つ。その脇に、当時の様子をとどめているという道が延びる。街道の雰囲気を体感できるかもしれない。
道の両側が切り立った、往時の街道の風景を残す。
地図の表示ルートは実際と異なる場合があります。目安としてご使用ください。