宮原から味取へ
植木温泉 → 小野泉水公園 → 瑞泉寺
植木の温泉
「植木町西宮原」交差点で国道3号を横切る。
筑肥山地の山並みが見える高台の道から下り坂に入り、民家の間を抜けた国道3号の「植木町西宮原」交差点の辺りが植木町の最北端部。ここからはそれまでとは異なり、しばらくはほとんど起伏のない道が続く。国道3号を過ぎて南東方面へ向かうと宮原温泉、さらに進んだ合志川の手前の芦原地区にも温泉が湧く。
合志川の土手から見る阿蘇や鞍岳の山並み。
植木の北隣、山鹿市の平山温泉辺りから南東方向の菊池市泗水まで、約20キロメートルの温泉構造線が通っているという。このライン上に、宮原や芦原の温泉を含む植木の温泉がある。
合志川沿いの植木温泉には、川の両岸の畔に温泉宿などが立ち並ぶ。上流側にも、田園風景が広がる中に川沿いの温泉施設が点在している。
温泉旅館や入浴施設が立ち並ぶ植木温泉。
七国神社と味取観音堂
県道199号を経て宝田橋を渡り、最初の交差点で左へ。約1キロメートル進み右折して、県道329号に入ると道は徐々に上りになっていく。高台に延びる道から右手に並んで見える3つの山は、左から横山、岩野山、平尾山である。
右側の岩野山と平尾山の間に国道3号が通る。
コースは植木と合志市の境界線の道をたどり、高速道路の高架を抜けたすぐの所が、横山の麓の泉に地下水を湧出する小野泉水公園だ。
小町堂には小野小町の像が安置されており、それを見守るように立つ七国神社は、この地に配流となった、小町の父とされる小野良実ゆかりの社。
朱色が映える建物が小町堂。
良実がこの地に流されたのは、虚偽の告げ口で罪を着せられたことによるとも、父・篁(たかむら)の罪に連座してのことともいわれる。良実がここに来たとされるのは、平安初期の承和6年(839年)。その時すでに、天照皇大神・田心姫神・鵜萱葺不合神・神武天皇の4柱を祭る祠が置かれていた。良実は、山に上り日本の将来を憂えていたある日、「七カ所の霊社の神々を横山の麓の神社に合わせまつるように」との天の啓示を受ける。それにより7柱の神々を合祀したとされるのが七国神社。良実が京都に戻されたのは、篁が許された翌月の承和7年3月だったという。
池から石段を上った七国神社。
来た道を戻りすぐに右折して、その先の十字路を直進。北区役所の前を通り過ぎると、国道3号との交差点。右折して約2キロメートル走れば、右手に岩野山、左手に平尾山がある。「植木町味取」交差点のすぐそばには、托鉢僧姿の山頭火像が立つ。
山頭火が詠んだ歌も残る味取観音堂。
「味取観音堂」とも呼ばれる、平尾山中腹の瑞泉寺は、俳人・種田山頭火が1年間ほど過ごした所。明治15年に現在の山口県防府市に生まれた山頭火が熊本に来たのは、大正5年。同13年師走、酒に酔い運行中の電車を停めてしまうという事件をきっかけに、山頭火は中央区坪井の報恩禅寺で出家し、翌年3月5日に味取観音堂の堂守となった。朝と晩に鐘を突くことが、堂守として課された仕事で、近所の子どもたちに読み書きなどを教え、生活は托鉢によりまかなっていたという。しかしそれも長くはなく、翌春の大正15年4月10日に植木を去った。これが、山頭火にとっての行乞の旅の始まりである。
石段を上り詰めた所に瑞泉寺のお堂が立つ。
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