銭塘から川尻へ
新開大神宮→歳星宮→六間堰→御蔵→「近見」交差点
熊本沿岸の干拓
コースはこの看板の先、信号がある交差点を左へ。
「中原町」交差点から国道501号を南下して約3キロメートル、信号のある小さな交差点を左に入る。道の両側に続く住宅が途切れると、右手の先に見えてくるこんもりとした緑が新開大神宮である。さらに南下して道なりに進んで行った所にある小さな神社が歳星宮。社殿の周囲には、いずれも水田が一面に広がっている。
「神風連」ゆかりの新開大神宮。
熊本平野の沿岸部で最初に干拓が行われたころ、海岸線は現在よりも3キロメートルほど内陸に入った国道501号の辺りだったと考えられている。
この道を直角に曲がってすぐの所が歳星宮。
鎌倉時代の弘安元年(1278年)、寒巌義尹(かんがんぎいん)という僧侶が銭塘の地を開いたことが、この地での干拓の始まりという。寒巌義尹は、順徳天皇または後鳥羽天皇の子とされる人で、宋からの帰国後に川尻で大慈禅寺を開いた。「銭塘」の地名は、中国の「銭塘陂」という所の風景と似ていたことが由来とされる。村ができたころに、寒巌義尹が創建したと伝わる神社が歳星宮(さいせいぐう)である。
寒巌義尹の船が歳星宮の辺りに漂着したという。
室町時代の文安2年(1445年)には、太田黒孫七郎が伊勢神宮を勧請して、新開大神宮を創建した。当時、その周辺にまで海水が及んでおり、孫七郎が開拓したともいわれている。
天明新川と緑川
歳星宮の南、500メートルほどの所で県道50号に出たら左へ。小さな橋の手前の信号で右折し、天明新川沿いの道を走る。
熊本平野を貫く天明新川沿いの道。
加藤清正は、白川の渡鹿(中央区)に堰を築き用水路を設け、熊本平野南部の耕作地に農業用水をもたらした。しかし、白川の川床は火山灰土のため水を地下に浸透させやすく、渇水することもある。この渇水を補い、水害の際の排水を促すため、江戸時代の天明年間(1781~88年)に土地を開削して造られたのが、人工河川の天明新川である。この工事では、飽田郡や託麻郡など周辺地域の5郡18手永から、延べ18万人もの人員が動員されたという。
天明新川に架かる裏橋。ここを斜め左へ。
裏橋で川を渡ってすぐ、左の道へ向かう。300メートルほどで三差路に突き当たり、右折すると緑川と加勢川の合流点が見える土手の上に出る。
緑川は、宮崎県との県境に近い、九州山地の三方山(山都町)に源流を発する総延長約76キロメートルの一級河川。美里町と甲佐町の緑の中を抜け、熊本市南区の平野部を通り、有明海に注ぎ込む。その流れは、九州山地の森林地帯などから取り込んだ豊かな栄養素を、耕作地にもたらす。
緑川と加勢川の合流地点。写真左に六間堰がある。
緑川との合流点近くにある六間堰から加勢川右岸の土手の道を上流方向へ向かう。逆Y字の小さな三差路を右へ。左へカーブする緩い上り坂から、右側の無田川に架かる外城橋を渡る。道なりに走ればすぐに川尻の町に入り、新幹線の高架が見えてくると御蔵が近い。
農業用水をもたらし水害を防ぐ六間堰。
川尻の御蔵
川尻の町並み。所々に江戸時代の面影を残す。
かつて川尻は、緑川流域の物流上、重要な港町だった。軍港としての機能も持ち、細川時代には「御船手」と呼ばれる藩の水軍も置かれていた。その家族の住居があったのが、加勢川と緑川に挟まれた、対岸の中州である。当時、橋は架けられておらず、人びとは「中之島(大慈寺)渡し」「杉島渡し」「御船手渡し」の3カ所の渡しを使って集落と行き来していた。
対岸の中洲との往来に利用された御船手渡し場跡。
江戸時代、水運の町として繁栄した川尻は、年貢米の集積地であると共に、大坂などへの積み出し港でもあった。この港には、加勢川や緑川などの水運により、20万俵、約1万トンの年貢米が積み下ろしされている。コメの他にも、菜種や大豆などの農産物、薪炭、塩魚などの取り扱いがあった。年貢米は、20万俵のうち15万俵が大坂・中の島の、藩の蔵屋敷へ回船問屋の千石船で運ばれ、帰りの便には現地で購入された綿や鉄、昆布、日用品などが積み込まれた。川尻の港に到着したこれらの商品は、河川物流の中継的役割を果たした回漕船により農村部へ運ばれた。明治元年の記録によれば、年間で1170艘の商い船が、川尻の港を出入りしていたという。年貢米の残りの5万俵は、加勢川から内陸水路によって、熊本城の御蔵へ送られた。年貢米の納入期限だった現在の11月ごろは、川尻の港や町は大変なにぎわいだったという。
外城蔵の大小ふたつの御蔵が復元されている。
この町で特筆すべきは、江戸時代の御蔵があること。御蔵とは、年貢米を収納するための蔵。全国的にも現存する御蔵は4つ確認されているのみ。岩手県盛岡市の「明治橋際の御蔵」と鳥取県湯梨浜町の「橋津の藩倉」、残りのふたつはいずれも熊本県内にある。宇土市の「宇土支藩御蔵」は会社の所有だが、もうひとつの川尻の御蔵は、資料館として公開されており内部に入って見学も可能だ。
館内では御蔵や川尻の歴史などを紹介。
御蔵の近くに加勢川が流れており、石垣が続く遊歩道沿いに船着き場や渡し場も現存する。船着き場が階段状になっているのは、干満差が大きい有明海の影響を受けることから、水位が上下しても荷役ができるようにするための工夫。
干満時いずれにも対応可能な船着場の石段。
川尻の御蔵には飽田・託麻・益城・宇土郡の年貢米が収められていた。この4郡は現在の熊本市、上益城・下益城郡および宇土半島が、ほぼそのエリアに当たる。
当時は「東蔵」「中蔵」「外城蔵」に、合計9つの蔵があった。現在の新幹線の高架下の辺りに「中蔵」、その東隣りに「東蔵」が置かれており、復元されているのは西隣りに立っていた「外城蔵」のふたつの御蔵。一説に外城蔵は、加藤清正が攻め落とした小西行長の宇土城の材木などを用いて建てられたという。
遊歩道の上に新幹線と在来線の鉄道橋が架かる。
御蔵の前の通りを加瀬川上流方向に向かい、県道50号で左折。約2キロメートルで国道3号に出てさらに北へ向かえば、1キロメートルほどでコース開始時の、国道3号と国道57号が出合う「近見」交差点。
「近見」交差点。正面が国道3号、右が国道57号。
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