国道501号へ
熊本港親水緑地広場→内田・銭塘地区
「島原大変肥後迷惑」
熊本港大橋の北側に白川河口が見える。
熊本港は、飽託海岸の沖合約600メートルの埋め立て地に造られた港。長崎の島原港とカーフェリーで結ぶ。
県道51号上の熊本港大橋を渡ると左手に突堤が延び、150メートル先の交差点を右に入ると熊本港親水緑地広場、左手がフェリーターミナル。東側の対岸に、白川河口から緑川河口までの約7キロメートルの堤防が続く。干潮時に干潟の風景が楽しめ、天候によっては、有明海越しに島原半島の雲仙岳を正面に見ることができる。
熊本港親水緑地広場では家族連れも見掛ける。
「島原大変肥後迷惑」と呼ばれた歴史的出来事がある。江戸時代の寛政4年(1792年)4月1日、島原雲仙岳の眉山が崩壊して、大量の土砂が有明海に流れ込み起こった大津波が、対岸の熊本を襲った災害だ。この津波により、熊本側だけで5000人近くの犠牲者が出た。
眉山崩壊による土砂は3億立方メートルを超えた。
島原では、眉山崩壊の数カ月前から地震が頻発し、1月18日には普賢岳で噴火も発生している。3月1日に、地震で眉山の岩が崩れ落ち地割れも生じ、熊本側では60回ほどの地震が起こり噴煙も見えた。4月1日の大津波は、熊本県北側沿岸部の荒尾・玉名で特に多くの犠牲者を出し、南側の宇土や天草にまで被害は及んだ。現在の熊本市域では、背後に金峰山地を控える河内地区や、坪井川から緑川の河口に至る飽田・天明地区の平野部が大津波に襲われた。
干潟ではバードウォッチングも楽しめる。
白川では、河口から8キロメートルほどの所にある薄場橋の辺りにまで津波が及んだ。現在の海岸線から内陸に約2キロメートルまでの所が、江戸時代以降に造成された干拓地という。その分を差し引いても、6キロメートルほどの上流にまで海水がさかのぼったことになる。
熊本港と島原港の間をフェリーが行き交う。
津波の返し波は島原半島も襲い、沿岸部の人びとが犠牲になり、土砂崩壊による被害も含めて約1万人が命を落とした。島原と熊本、合わせて約1万5000人の死者は、日本史上最大の地震による被害である。
熊本港大橋を渡り陸地側に戻る。
昭和2年の高潮被害
散歩におすすめの熊本港大橋の歩道。
熊本港大橋で陸地側に戻ると、「沖新町」交差点を県道233号が南北に横切る。この道は海抜1メートルほどの低いエリアを通っており、堤防側はさらに低く海抜0メートルを下回る所もある。「沖新町」交差点をそのまま直進して2.5キロメートルほど進むと、国道501号との「中原町」交差点。国道501号は海岸から3キロメートルほどの内陸部を南北に通っている。右折して南へ向かう。
有明海は熊本・長崎・福岡・佐賀の4県に囲まれており、島原湾と呼ばれることもある。湾の主な出入り口に当たる天草下島北端と島原半島南端との間の海峡は、わずか5キロメートルほどと、とても狭い。そのため、外海からの影響は小さく、普段の有明海は穏やかな海である。寛政の大津波は火山噴火と地震が原因となり起こった。昭和2年9月13日の高潮は、台風により引き起こされたものだった。
橋の南側には東西に延びる宇土半島が見える。
沖大東島(沖縄県)のはるか南方で発生した台風は、午前8時ごろに長崎市付近に到達し雲仙方面へ向かった。島原半島で風速約50メートルの暴風の時、熊本では3メートル程度の微風だったという。午前10時ごろに台風が有明海に接近すると海上は荒れ始め、熊本の沿岸部の風速は12メートルを超え、午前11時ごろには20メートルとなり、最大風速は26メートルに達した。当日は年間で最大の高潮の時季で、台風が熊本市に上陸しようとするそのタイミングは、満潮時でもある。あおられた波は高さ9メートルの巨大な高潮となり、堤防を破壊し陸地に侵入した。内田・銭塘地区辺りが浸水被害が特に甚大で、水田は70センチメートルほど水没したという。
海岸線とほぼ並行に、南北に走る国道501号。
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