八雲旧居から熊本駅へ
小泉八雲熊本旧居 → 夏目漱石のレリーフ → 花畑公園 → 長六橋 → JR熊本駅
ハーンが見た明治の熊本
繁華街の外れに立つ「小泉八雲熊本旧居」。
「水道町」交差点の程近く、ビル裏手の蓮政寺公園脇に小泉八雲熊本旧居が立つ。元は正面のデパートの場所にあった建物。現在は資料館として公開されており、ハーンが頼んで作ってもらったという神棚や、熊本での暮らしぶりを垣間見られる資料などが展示されている。
ハーンは毎朝起床後、神棚に拝んでいたという。
旧居を出て60メートルほど、駕町通りを左に折れ、銀座通に出たら右へ。下通アーケード街を通り過ぎてすぐの右手、ビルの壁面にレリーフが掲げられている。この辺りが、漱石が住んでいた光琳寺町の家があった場所だ。
いずれの家も、ふたりにとって熊本で初めての借家だった。この辺りは熊本城に近い。ハーンや漱石がいた当時、軍事都市だった町の雰囲気は、現在とは程遠いものだったのだろう。
漱石は光淋寺町の家で鏡子と結婚した。
明治4年、全国4カ所に設置された陸軍の鎮台のひとつが鎮西鎮台として熊本に置かれ、2年後に熊本鎮台と名を改め本営が熊本城に移された。明治21年に第六師団となり、ハーンが熊本にいた明治26年の地図は、熊本城内の司令部や歩兵第十三連隊、城下の騎兵営や練兵場などを描く。明治27年の日清戦争では、第六師団から出征した兵員たちが、凱旋時に熊本の人びとに歓声をもって出迎えられた。明治37年の日露戦争では、第六師団が編成した部隊の6万人を超す兵が戦場に送り出されている。
銀座通を抜けて路面電車の通りに出ると、陸軍第六師団の歩兵第二十三連隊が置かれていた花畑公園が近い。
かつて花畑公園一帯に軍事施設が集まっていた。
第六師団では正午を知らせる午砲が放たれ、起床と就寝時にはラッパが吹かれていたという。ハーンは、作品『願望成就』で、戦時ムードが漂う町の様子を描いた。その冒頭、「衢(ちまた)には、白い軍服と、ラッパの音と、引かれてゆく砲車のひびきとが、みちあふれていた」とある。
熊本に到着したハーンは春日駅、現在のJR熊本駅に降り立った後、この辺りの道を通って不知火旅館に向かったようだ。おそらくその際、花畑公園の一帯に置かれていた、広大な練兵場などの軍事施設を目にしたのだろう、熊本の第一印象を次のように述べたという。
「やや、がっくりさせられる。小屋や兵舎、そればかりか、でかい兵営の立ち並ぶ荒野と言うべきものだった」
白川の橋
再春館跡の先に国道3号が横切る。長六橋はすぐ。
花畑公園を右にそのまま歩道を直進して、横断歩道を渡り右折。「辛島公園前」交差点で左に入り、路面電車の通りを横切ってさらに直進する。約200メートル進んだテレビ局の角に森鴎外の小説のモデルとなった「阿部一族屋敷跡」、さらに50メートルほど先には細川藩の医学校「再春館跡」の説明板が立つ。
北九州市と鹿児島市を結ぶ国道3号が通る長六橋。
目の前を横切る国道3号は、白川に架かる長六橋に続く。橋の名前は、慶長6年(1601年)に架橋されたことによる。
この橋は加藤清正が築いたもので、城下で白川に架かる橋は戦略上の理由により、当時、長六橋だけだった。その状態は安政4年(1857年)に安巳橋が架けられるまで続き、次に築かれたのが明治3年の明午橋である。明治10年に起きた西南戦争の際、城下の白川に架かっていた橋は、この3本のみだった。
西南戦争から14年後の熊本に来たハーンには、戦争を体験した人びとから生の声を聞く機会は豊富にあっただろう。短編小説『橋の上で』の中で、車夫が西南戦争での体験を回想するシーンを描いた。それが、白川の「ある橋」の上でのこと。車夫の目の前で農夫に扮した3人の薩摩軍の兵士たちが、通りかかった官軍の将校らを次々と惨殺するというもの。このモデルとなった橋が、長六橋だったともいわれる。
白川沿いの遊歩道を熊本駅へ向かう。
長六橋からは、白川沿いの歩道を下流側へ向かう。坪井川と白川を隔てる、加藤清正が築いた石塘の上を過ぎた左手が白川橋、右手の先にはJR熊本駅が見える。
明治24年11月19日、駅に降り立ったハーンの熊本での生活は、五高の嘉納治五郎校長に出迎えられて始まった。
坪井川に架かる春日橋を渡ると熊本駅はすぐ。
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