五高跡へ
薬園町 → 五高記念館 → 石仏 → 北千反畑の家
五高記念館
熊本大学内にある「五高記念館」へは赤門から。
ふたりが勤務した五高は、明治20年11月に第五高等中学校として始まり、明治27年に第五高等学校と改称され、昭和24年、熊本大学となった。「蕃滋園」は、細川6代藩主重賢が開設した、漢方医師を養成する再春館の付属の薬草園。明治23年に廃止されたが、薬草や薬木は五高に寄付され、後の熊本大学薬学部に受け継がれている。
キャンパスの緑の中に立つハーンのレリーフ。
県道337号沿いにある、赤門の熊本大学正門からキャンパス内に入り150メートルほど歩くと、ハーンのレリーフと共に英文の石碑が立つ。そこに刻まれているのは、明治27年1月に行われた、ハーンの『極東の将来』と題する講演での最後の言葉。傍らにその翻訳文がある。
「日本の将来は無益な贅沢、華美を捨て、質実、簡素、善良を愛する九州魂、熊本魂の維持如何にかかっている」
「五高記念館」。館内では関連資料を展示。
ハーンのレリーフの先には、赤レンガの五高記念館が重厚感を漂わせて立つ。ここにはハーンや漱石以外にも、著名な人びとの名が残る。
第3代校長に柔道の大家として知られる嘉納治五郎が就き、後に内閣総理大臣となる池田勇人と佐藤栄作、第2次世界大戦終戦時の外務大臣・重光葵らが学んだ。館内では、開校10周年記念式で漱石が教員総代として読んだ祝辞の原稿や、池田勇人から寄贈された大太鼓などを展示。必見は「復原教室」。黒板と教壇の前に机が並べられ、その表面には落書きが残されたまま。当時の雰囲気が感じられそうな空間だ。
五高記念館の復元教室。
『石仏』の地蔵
漱石像の傍らに創立記念日の祝辞を刻む碑が立つ。
大学敷地の東側に沿って延びる緩い上り坂を、細川藤孝や忠興らの廟舎がある泰勝寺跡方面へ向かう。宮本武蔵ゆかりの引導石の先を左に入った所が、ハーンが授業の合間などに散歩をしていたという、キャンパス裏手の小峰墓地だ。作品『石仏』では、墓地から見た風景が描かれている。
小峰墓地の坂道で振り返ると見える風景。
「丘のてっぺんからの見晴らしは、なかなかいい。ひろびろとした万緑の肥後平野が一望のうちに眺められ、そのむこうに、青い、ゆったりとした山脈が、半円形をなして、遠い地平線の光のなかに映え、そのまたむこうには、阿蘇火山が永遠の噴煙を吐いている」
今では、住宅や木々などに遮られてしまっており、見通しは利かない。しかし、坂道の途中から九州山地の山並みなどを眺めることができる。
『石仏』のモデルとなった鼻の欠けた地蔵。
道の傍らに立つ「石佛」を示す案内をたどれば、ハーンのころと変わっていないであろう、鼻が欠けた顔に、優し気な表情をたたえる石仏が今もたたずむ。
漱石が最後に過ごした家
小峰墓地から道を下り県道337号に出て、来た道を戻り、スクランブル交差点を渡った所が子飼商店街の入り口。この商店街は、300メートルほどの通り沿いに、飲食店や食料・生活用品店など、庶民的な店舗が立ち並ぶ。
熊本大学の学生も行き交う子飼商店街。
戦後にできた商店街でハーンや漱石がいたころにはなかったが、八雲通りが通っており、徒歩数分の所には漱石が熊本で最後に住んだ北千反畑の家がある。今も住む人がいるので内部は見学できないが、建物は通りから見ることができる。
漱石はここで3カ月間過ごした後、英語研究のため2年間のイギリス留学をすることとなり、そのまま熊本に戻って来ることはなかった。
北千反畑公園に立つ標識。
「禰宜の子の烏帽子つけたり藤の花」
明治31年、漱石がこの家の近所にある藤崎八旛宮を詠んだ俳句だ。現在、漱石は小説家として有名だが、そのデビュー作『吾輩は猫である』が発表されたのは、明治38年のこと。熊本にいたころの漱石は、俳人として知られており、後の随筆家で物理学者の寺田寅彦は学生当時、漱石の俳句に引かれて師事した。「漱石」という名は、友人の俳人・正岡子規の詩文集を批評した際に初めて使った俳号である。
漱石は五高在籍のまま熊本を後にした。
先の句には「藤の花」という春の季語があるので、明治31年3月に転居した、4番目の家にいたころの作品と思われる。藤崎八旛宮と同じ井川淵町の家は、明午橋の脇に、白川に面して立っていたという。妻の鏡子が、雨で増水した白川に身を投げる、自殺未遂を起こした時に住んでいた所でもある。入水した鏡子は、川漁をしていた人に助けられたというが、漱石夫妻にとって早く離れたかったのか、住んだのも3カ月間ほどと短かった。
藤崎八旛宮の参道。北千反畑の家からすぐ。
白川には、白雉3年(652年)や天平16年(744年)など、古くから洪水の記録が残り、その後も被害は続いている。特に、昭和28年6月26日の被害は甚大だった。阿蘇山の火山灰が流下し、熊本市の中心部などが大量の泥土を伴う大洪水に見舞われ、死者・行方不明者は422人に及んだ。
漱石が北千反畑の家を最後に熊本を離れた明治33年7月にも、白川の大洪水が起きている。漱石やハーンの目にも、その猛威は見せつけられていたのかもしれない。
藤崎八旛宮の楼門。裏手は白川に面する。
明午橋から白川沿いの歩道を600メートルほど歩くと、路面電車が通る大甲橋。漱石の3番目の家は、橋を渡った左手一帯の新屋敷1丁目にあった。現在、建物は水前寺成趣園の裏手に移築されている。
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