上熊本駅から坪井へ
JR上熊本駅 → 新坂 → 夏目漱石内坪井旧居 → 小泉八雲の旧居跡 → 薬園町
新坂の風景
JR上熊本駅。熊本市電と熊本電鉄が隣接する。
漱石が池田停車場、現在のJR上熊本駅に降り立ったのは、明治29年4月13日。第五高等学校(五高)に勤務していた友人の菅虎雄を介して校長に招かれ、愛媛県の松山を離れ、五高の英語講師として熊本に来た。現在、駅前の三差路脇には、漱石の銅像が立つ。
「上熊本」電停の前に立つ夏目漱石像。
漱石は、菅に出迎えられて人力車で坪井方面へ向かった。JR上熊本駅前から、京町の坂を上り切った左手に続く大木の並木道は、樹齢100年を超すクスノキの「京町本丁漱石記念緑道」。県道303号が横切る「京町本町」交差点を過ぎて200メートルほど直進する。視野が開けてくると新坂の下り坂。その眺めは、眼下に立ち並ぶ民家やビル、左手になだらかに稜線を描く立田山、遠く阿蘇や九州山地の山並みを望む。
当時、この坂からの風景を目にした漱石は「森の都」と口にしたというが、実のところ本当にそう言ったのか定かではない。しかし、明治33年7月に熊本を離れ、8年の年月を経て、漱石は当時を振り返って次のように語っている。
「京町本丁漱石記念緑道」の並木。
「新坂にさしかゝると、豁然として眼下に展開する一面の市街を見下ろして又驚いた、而していゝ所に来たと思つた、彼處から眺めると、家ばかりな市街の盡くるあたりから、眼を射る白川の一筋が、限りなき春の色を漲らした田圃を不規則に貫いて、遥か向ふの蒼暗き中に封じ込まれて居る、それに薄紫色の山が遠くに見えて、其山々を阿蘇の煙が遠慮なく這ひ廻つて居るといふ絶景、實に美観だと思つた」
新坂から見る坪井の風景。町並みの先が阿蘇山。
坪井の旧居跡
新坂を下って行くと左へカーブして信号はすぐ。
坂を下り切ったら、最初の信号を右折。200メートルほど直進した所が夏目漱石内坪井旧居だ。
なお、上熊本駅から路線バスも利用できる。その場合、この交差点の50メートルほど先の「内坪井」停留所で下車する。
現存する漱石が住んだ家は3カ所のみ。
漱石は熊本到着後、当初1カ月間ほど菅宅にいた後、光琳寺町へ転居し、さらに5軒の家に移り住んだ。その光琳寺町の家から数えて5番目の家がここ。館内では漱石の書斎と思われる部屋が再現され、熊本滞在時の写真などを展示。庭には長女の筆子が生まれた際に産湯に使った井戸がある。
漱石は庭園が見える部屋を書斎にしていたそうだ。
内坪井町は熊本城に近く、旧居周辺には宮部鼎蔵や横井小楠といった、幕末から明治にかけて活躍した人びとの足跡が残る。徒歩5分ほどの所には、漱石と同じく五高で英語の教鞭を取った、ラフカディオ・ハーン、後の小泉八雲の旧居跡を示す石碑がひっそりと立つ。
坪井のハーン旧居跡を示す石碑。
明治24年11月、島根県の松江を出て熊本に到着したハーンは、当初、上通の不知火旅館という宿で数日間を過ごした。その後、手取本町の借家で暮らし始め、明治25年11月にこの坪井の家に転居して来ている。長男の一雄が生まれ、『知られぬ日本の面影』の執筆などをして、熊本を去るまで過ごした家である。ここでのハーンは、広い庭の築山に標的を置いて弓の練習をしたともいう。
密集した建物の間を走る熊本電鉄の踏切。
「坪井一丁目公園」の四つ角を左折して東へ向かう道は、ハーンが人力車で五高に通ったという「八雲通り」。仁王通りとの十字路を直進し、熊本電気鉄道の踏切を渡った辺りが、漱石が2番目に過ごした合羽町の家があった所。
なお、熊本電鉄の前身である菊池軌道が営業を開始したのは明治44年だったため、ハーンと漱石が熊本にいたころ、まだ電車は走っていなかった。
「藤崎宮北」交差点。ここを左へ向かう。
八雲通りは国道3号の「藤崎宮北」交差点を直進して子飼商店街を通り抜けるが、コースはここで左折する。次の「浄行寺」交差点を右に入った道路の左側が、漱石が旅装を解いた菅宅があった薬園町。この地名は、「蕃滋園」という薬草園が置かれていたことにちなむ。
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