松山市と熊本市の縁
平成8年、夏の高校野球甲子園大会決勝で、「奇跡のバックホーム」と称されるプレーが生まれた名試合を、愛媛県の松山商業と熊本工業が演じました。その20年後、夏目漱石没後100年に当たる平成28年11月に、当時のメンバーにより、熊本県営藤崎台球場で試合が行われています。野球がらみで松山といえば、「野球の普及に多大な貢献をした」として野球殿堂入りしている、俳人・正岡子規の故郷です。子規の友人の漱石は松山中学を退任後、熊本に来て約4年3カ月間を過ごしました。
俳人の種田山頭火も、松山市と熊本市に縁がある人です。山頭火は明治15年、山口県防府市に生まれました。彼が熊本に来ることになったのは、父親が作った借金が原因だったそうです。大正14年2月に中央区坪井の報恩禅寺で出家し、翌月に北区植木町の瑞泉寺、通称「味取観音堂」の堂守として約1年間を過ごしました。仕事は朝と晩に鐘を突くことだけで、生活は托鉢でまかなっていたといいます。また、近所の子どもたちに読み書きを教えたそうです。
「分け入っても分け入っても青い山」。植木を離れた月に詠まれた有名なこの句には前書きがあります。「大正十五年四月、解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出た」。その後、旅を続けた山頭火は、松山市の松山城の北、約1キロメートルの所に「一草庵」を設けました。最期は、昭和15年に一草庵で仲間との句会の後に迎えたといわれています。