熊本加藤氏2代
11人の細川藩主が加藤清正の陰で存在感が薄いと先に書きました。それよりもさらに目立たないのが、清正の跡を継いだ熊本加藤氏2代の忠広でしょう。忠広は慶長6年(1601年)に生まれ、同16年に父・清正の死により熊本藩54万石を受け継ぎました。清正の23年間に近い21年間、熊本を統治しましたが、寛永9年(1632年)6月、徳川3代将軍家光により庄内(山形県鶴岡市)へ配流となります。長男・光正は高山(岐阜県)へ、三男・正良は沼田(群馬県)へ流されました。一説に、光正がクーデターに加担していたとの疑いによるものですが、真偽は不明とされています。このことで熊本加藤藩は断絶となりました。忠広は庄内で22年間を過ごし、承応2年(1653年)に53歳で亡くなっています。
慶長16年(1611年)、清正が亡くなると、その遺言により廟所が建てられました。それが清正を祭る本妙寺の浄池廟です。熊本城を望む中尾山の中腹に建てられたその位置は、熊本城の天守閣の高さとほぼ同じといわれています。廟舎へ続く「胸突雁木」と呼ばれる長い石段の途中の脇には、忠広一族の分霊を祭る「六喜廟」があります。配流を言い渡された際、忠広は家臣から討幕を進言されましたが、それを退けたというエピソードも残ります。
忠広や11人の細川藩主のことが、熊本の人たちによってもっと取り上げられるようになったら、熊本市の歴史に厚みが少し加わるような気がします。