清正の町造り
九州最大の筑紫平野は、筑後川沿いに広がる筑後平野と佐賀平野からなります。筑後川は阿蘇の瀬の本高原を源流とし、大分県日田市を経て、福岡県のうきは市で中流域に入ります。久留米市や佐賀県みやき町の辺りから下流域になり、有明海へと流れていきます。この平野部は、筑後川が上流から運ぶ阿蘇山の火山灰を主とする土砂により形成された沖積平野です。
市中心部を流れる白川は、阿蘇カルデラ内の根子岳の麓を源流とします。筑紫平野と同じように、火山灰などの土砂が白川により運ばれて形成されたのが熊本平野です。熊本平野は、阿蘇外輪山の西麓から西へ続く「台地部」と、水前寺成趣園や江津湖、八景水谷の辺りから有明海沿岸部までの「低地部」からなります。
かつて、熊本城の辺りでは、大雨が降ると白川がすぐに氾濫していたそうです。地図を見れば、菊陽町と熊本市の境辺りから白川が蛇行を繰り返しているのが分かります。川がカーブする所は水が一時的にとどまるため、水位が高くなりがちです。近年でも、昭和28年6月や平成24年7月など、大きな被害が生じた氾濫が起きています。天正16年(1588年)に肥後入国した加藤清正は、京町台地南端に立つ隈本城(古城)に入城後、新城(熊本城)と城下町を築きました。一方、城下で大きく蛇行していた白川の区間を直結させ、坪井川と分離しています。そのおかげで、現在に続く賑やかな城下町が形成されました。