【案内編⑥】宮本武蔵ゆかりの地
宮本武蔵の人生は謎に包まれていますが、明らかなのが熊本で過ごした晩年の約5年間といわれています。武蔵は寛永17年(1640年)、熊本細川藩初代藩主・忠利の客分として、熊本に来ました。忠利は柳生新陰流の免許皆伝を受けており、剣術に理解が深かったと考えられます。
武蔵が忠利のために二天一流の兵法について著したのが「兵法三十五箇条」です。武蔵独自の兵法観や二刀流などについて述べられた『五輪書』は、この「兵法三十五箇条」を基に著されたものといわれています。しかし忠利は、この書が献上された1カ月後の寛永18年3月17日に突然亡くなります。忠利の死は、武蔵に大きな精神的ダメージを与えたようです。武蔵の最期は、2代藩主の光尚の時、自戒の書とされる「独行道」を書き上げた1週間後の正保2年(1645年)5月19日でした。
武蔵が熊本城下で住んでいた千葉城跡の家は、「熊本城・市役所前」電停から600メートルほど、坪井川に架かる六工橋の近くにあったそうです。葬儀は細川家の菩提寺の泰勝寺で行われました。住職の春山により引導を渡された際に棺が置かれた石が、泰勝寺跡近くの道端に残されています。墓所がある武蔵塚公園は、そこから県道337号を大分方面へ5キロメートルほど行った所です。参勤交代で行き来する藩主を見守りたいと、武蔵の遺言にあったといいます。そのことから、旧豊後街道沿いのこの地に埋葬されたそうです。