【案内編⑤】細川忠利ゆかりの地
熊本で「細川氏」といえば、幽斎藤孝や三斎忠興の名前が浮かぶでしょう。しかし、細川氏が熊本藩54万石を与えられた時、藤孝は22年前に亡くなっており、忠興は12年前に家督を子に譲っています。熊本細川藩の初代藩主は、幽斎の孫で忠興の子の忠利でした。
15歳の時に人質として徳川家に差し出された忠利は、後の2代将軍秀忠に気に入られ、「忠」の一字を与えられました。春日局や、幕府の剣術師範の柳生宗矩、幕閣の要人らとも人脈を築いています。熊本藩主となった忠利は、死後もなお領民に慕われていた加藤清正を尊重し、他藩の模範となるような治世を心掛けました。このころは3代将軍家光の時代で、天下太平の基礎固めが行われていました。忠利の活躍は目立つことはありませんでしたが、廃藩置県までの約240年もの間、藩を存続させ花が開いたといえるでしょう。
忠利は寛永18年(1641年)、56歳の時に突然亡くなり、JR熊本駅近くの春日寺で火葬されました。その裏手に「細川忠利公火葬の地」の石碑が建てられており、墓所は北側の妙解寺跡に置かれています。忠利の死に伴う殉死にまつわる事件は、森鴎外により『阿部一族』として小説化されました。「慶徳校前」電停から徒歩数分の所が、現場となった「阿部一族屋敷跡」です。その400メートルほど北、「花畑町」電停そばの花畑公園には、忠利の本邸だった花畑屋敷がありました。