だざいふ
太宰府
~政庁跡と天満宮~
大宰府政庁跡と四王寺山。石柱が立つ場所が正殿跡。
「ダザイフ」の漢字表記には、2通りある。律令時代の政庁については「大宰府」、中世以降の地名や菅原道真に関する天満宮については「太宰府」と、一般的に区別されている。
大宰府政庁の始まりについては明らかではない。一説に白村江の戦いの後、水城や大野城などの防衛施設が築かれたころのこと。博多湾から15キロメートルほど内陸にある現在の太宰府の地に、那津官家(なのつのみやけ)の機能が移されたことにより、その歴史が始まったという。
律令時代の大宰府は、国の外交・防衛、九州の政治の拠点としての役割を担った。聖武天皇のころに一時廃止され、平安時代後期に約500年間続いた律令制下の「大宰府」は終わったとされる。ただしその後も、「権威」は残されていたという。鎌倉から下ってきた武藤氏は大宰少弐として九州を支配し、南北朝時代には南朝方の征西府が置かれた。
右大臣に上り詰めた菅原道真が、左大臣の藤原時平の虚言により左遷され、この地に来たのが昌泰4年(901年)。2年後に59歳で亡くなり、遺体を牛車で運ぶ途中、ウシが動かなくなった所に埋葬され、社殿が建てられ太宰府天満宮となった。
太宰府天満宮と大宰府政庁跡の間を、「歴史の散歩道」という約2キロメートルの散策コースが結ぶ。途中には「天下三戒壇の一」と称された観世音寺や、武藤資頼・資能の供養塔などの見どころがある。
参考資料: 「太宰府の歴史」太宰府市HP、他
道真を追って都から飛来したという御神木の梅の木。
天竺・唐・大和の土が納められている観世音寺西戒壇。
アクセス:西鉄太宰府駅(太宰府市宰府)
モデルコース:太宰府天満宮 → 観世音寺 → 大宰府政庁跡
移動手段:徒歩